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良薬くちにアメル

酸いより甘いより苦味が強い、日々の記録を残していきます

どすこい

私は「押してダメなら引いてみろ」ができないタイプだ。相手への興味がなくならない限りは、往年の千代の富士くらいずっと押しっぱなしだと思う。私の恋のBGMには何かしらの48や西野カナよりも、行司があげてくれる「のこったのこった!」の声が相応しい。

引くことができない原因にはいくつか心当たりがあるのだけれど、1番大きいのは「自分が追われる立場になる自信がないので、引いたらそこで終わってしまう気がするから」という理由だろうか。あとは単純に「構ってもらっている時の犬みたいに興奮しているから」だ。

 

話は変わるが、何年か前に生まれて初めて盛大な片想いをしたとき、私は彼にとって多分相棒のような存在だった。星座アプリ片手に星を探しながらツタヤへ行ったり、深夜のバラエティ番組を見ながら戦争の話をした。わかりやすくロマンティックで映画のような片想いだった。

まぁ、びっくりするくらいあっさりとフラれてしまったのだが、私の心の中の千代の富士は、そのときの経験から生まれたのかもしれない。もはや何でも話せる間柄すぎて聞いてしまったのだが、彼はまったく私の好意に気づいていなかったし、なんなら実は好きなひとがいる、という。最初は「好きなひとがいるって言っておけば角が立たないからそう言っているのかな…」と思った。しかし時間が経ってみると「いやでも、自分に気があって、自分もそんなに嫌いじゃない女なら、優しい言葉で誤魔化してキープちゃんにするのでは?」と、我ながら悪い考えが浮かんでしまう。キープちゃんにさえならなかったのはなぜだろう。彼の前では、私はガラスの仮面並みに「気のない女」を演じていて、そのせいでいつの間にか恋愛圏外へと弾かれてしまったのではないか。もっと色々な気持ちを素直に伝えればよかったのではないか、と、しばらくは心臓の内側から、雨漏りみたいにじわりじわりと後悔が染み出してきたものだ。

ハッケヨイスタイルでフラれて後悔する経験を積んだら、次の私のスタイルはどうなるのだろうか。渾身の想像力で「フラれて後悔した自分」を妄想してみたら、今すぐ成長できるのだろうか。こういう経験の積み重ねは、10代とか、もっと若いうちにしておきたかった。倫理の授業では、恋愛がテーマに取り上げられることもあったと思うのだが、先生、こんなの聞いてないです。恋愛は経験がものをいうから積極的に取り組んでおかないと、大人になってからぶっつけ本番は無理だよって、プリントのど真ん中に書いておいて欲しかった。

JUST COMMUNICATION

近頃、ロマンティックな恋愛に憧れながら、私の求めている恋愛の形はロマンティックはとかけ離れているのかもしれない、と気付いてしまった。どうにも私は実績主義なのだ。

例え話が少し突飛になるが、世の中にはひどい暴力を子供に振るったり、暴言を吐く親がいる。それをいくら「愛しているから」「しつけの一環だから」と言い繕っても、子供からしてみれば「愛しているからだと言ってくれた」という喜びよりも「怪我をさせられた」とか「酷いことを言われた」というほうが印象的であると思う。なんと言い訳しても、親が子供に残した実績は暴力だけだ。

犯罪レベルの話ではなくとも、私は「結局何を受け取ったか」を気にする傾向がある。もちろん受け取るものはプレゼントに限らない。恋愛の場合でも、信頼や安心、楽しさや共感などを得るための情報やアクションを、どれだけ交換し合えるか、を重視している。当然暴力は論外だ。ここからは「会話すること」についての話をしたい。

結局、婚活とか恋愛とか呼び方は変わっても、それらの本質がコミュニケーションであることに変わりはない、と、近頃思う。「相手にこれをしたらどうなるか」をろくに想像できないならば無理に駆け引きなんてしない方がいいし、雑誌で研究した小悪魔テクニックを闇雲に使ってお互いの混乱を招くより、真正面から相手に向き合って「あなたのことを大切に思っている」と言った方が間違いなく好意を伝えられるからだ。

20世紀くらいから伝えられる伝統のテクニック(さりげないボディタッチとか)は、なんとなく今でも私たちの身の回りに生きている。「なんだかこの子気になる」とか「オレのこと好きなのかな?」とか思わせるのは、恋愛において有効かもしれない。しかしどんなに思わせぶりなことをしても、その後デートに誘わなかったり連絡を入れなければ意味がないと思うのだ。なぜなら、唐突なボディタッチだけでは意味がわからず、たいした実績が残らない。「この子はオレに気があるけど、自分から誘うのが恥ずかしいんだな。よし、オレの方から誘ってみよう」なんて連絡を入れてくれる親切なひとはなかなかいないし、なんだかヤリモクにしか引っかからない気がする。

案外、世の中には自分からアプローチすることがみっともないとか恥ずかしいとか、恐ろしいとか負けだとか感じる人が多いのだ。

婚活という、同じ目的の男女が集まっているのがわかりきっているシーンでさえ、往生際悪く「お高くとまっている」としか見えない人もいる。彼らは、いつだってできるだけ傷つきたくないのだろう。そして、愛されるためにどう行動すればいいのかわからず、悩んでいるのだろう。

「あなたに興味がある」までは、誰でも言える。「あなたのことが知りたいので教えてほしい」も、まぁ言える。

「私はこういう人間で、こうしたいと思っている」

「あなたがこうだから、好感を持っている」

「自分はこういう立場で、こう考えているので、信頼してほしい」

「あなたはどう?」

こういうことも、私は言葉で交換したい。ひとは口で言わなければわからないのだ、ということは、大人ならばもうわかっているはずだ。

他人が何を考えているかなんて、いくら想像して悩んでも的確にわかるわけがない。それなら「そんなこと考えればわかるでしょ、なんて絶対に言わないから、不安になったら何でも聞いてよ」と一声かけておくほうが、よっぽど建設的だと思う。かつては誰もアルバイト先の先輩に「わからないと思ったらやる前にすぐ聞いて!」と言われていたと思うのだが、仕事でも恋愛でも同じようなものだ。ゴミ袋がしまってある場所も使える商品券の種類も、知らないものはいくら考えたってわかるわけがない。

私は少し前まで適切なコミュニケーションが足りない状態であれこれ悩んでいたのだが、だんだん「考え方の違い」以外のことで悩むのがバカバカしく感じるようになってきた。今思えば、自分の妄想で勝手に悩み怯えているのは、相手に対しても失礼な気がする。もし、ちゃんと話し合ってほしいと頼んでも、自分の世界での妄想を優先し、コミュニケーションを疎かにする相手ならば、残念だが「ここに実在する私」に対して真摯ではないのだな、と思わざるを得ない。たまに、そういう「無駄に悩むのが好きなひと」はいるけれど。

まぁ、私だって「言わなくてもわかる」という関係に憧れる気持ちはある。だけど、それは応用問題だということを失念してはいけない。好きなものや時間の使い方、金銭感覚や笑いのポイントなど、基礎問題が解けて初めて進めるステージだ。

 

なんでも言葉にして伝えることは、ロマンティックとは少し遠いかもしれない。胸を焦がすような情熱的な恋や、甘い感情とも違うかもしれない。しかし充分な信頼関係さえ築ければ、甘さは後から付いてくるのではないかな、と思うのだ。正しいレシピで上手にスポンジを作ることさえできれば、生クリームがうまく塗れなくても、苺の形がいびつでも、きっとおいしいケーキになると思う。

サラダを取り分けない女にも悩みはある

先週つつがなく合コンを終え、また少し休憩期間に戻ってしまった。いまはアプリでメッセージを交換していた方とたまに通話をするくらいで、11月同様、劇的な進展はない。

ただ、久しぶりの合コンや、相手と通話している時の自分を振り返り、少し引っかかった、というか、意外と難しいと感じたことがあった。

 

男女ともに、結婚相手や恋人に求める条件として挙げられるものは、だいたい相場が決まっている。なかでも多く挙げられるものが「優しさ」だと思うのだが、雑誌などにそう書いてあるのを読んで、世のひとはどのように感じるのだろう。

正直、私は「これはできるからまぁいいや」とスルーして、すぐ他の項目に目を移すと思う。思い返すと、かなり昔から他人(好きなひと)に優しくできるという謎の自信がいつもあった。

実際、多分私は不親切なほうではないし、年下の世話を焼いたりもする。しかし、結婚相手や候補の女性に求める「優しさ」が具体的に何なのか、と考えると、私には案外想像するのが難しかった。

最近ネットなどで「合コンでサラダを取り分ける女」の揶揄を何度か見かけた。私は彼女たちに対して「合コンの趣旨を理解していてやる気がある」「積極性のアピールは大事」「私の代わりにめんどくさいことをやってくれる」と思っているので、不快な感情はないのだが、それが優しさかと言われると、まぁ違うのかな、と思う。一般的には「見当違いの優しさ」だから、あれほど揶揄をされているのだろう。

多分私は「優しさ」の正体について、もっと早い段階で考えなくてはいけなかった。今まで「ピンとこないけど、試しに付き合ってみるのもいいか」と思うひとはみんな優しそうだったし、優しそうではないひとは、ちょっと見た目が素敵でも話が面白くても、だいたい敬遠してきた。もちろん私基準の「優しそう」ではあるが、こうやって自分にとって「優しそうか否か」を基準に、バサバサと足切りをしながら候補探しをしているひとは、一定数いると思う。そういうひとに対しては「優しくできる」ではいけないのだ。第一印象の時点で「(そのひとが思い描く)優しそうなひと」でないと、私なりの優しさを本領発揮する前にふるい落とされるかもしれないから。

優しさ、好意、共感、尊敬、個性など、好ましい相手や好かれたい相手にアピールしたい気持ちの種類は多岐にわたる。どれもが独りよがりにならないよう気をつけるのは実に難しい。相手にとって何が優しさなのか、どう伝えればいいのか、正解はひとによって多少違うのだろう。

私の場合、最近はもっぱら通話でコミュニケーションを取っているので、視覚の情報がなく、余計に難しく感じるのかもしれない。なんだかやけに相手のご機嫌を伺っているな、という自覚がある。

まぁ、こうやって「全然うまくできなくて凹む」と思えるのも、そんなに悪くはない。相手の粗探しに夢中になるより自分の欠点が気になる、という方がはるかに健全だし。

と思ってしまうのは、自分に甘すぎるだろうか。

自立するために障害福祉手帳を申請したはなし

精神障害と聞くとやはり外聞の悪いものだろうか。先月、私は障害者手帳を申請した。生きるために必要だったのだから、外聞がどうとか言っている場合ではない。障害年金の申請をしたときも、いつかするかもしれない結婚のことが頭の片隅にあった。誰に向かってかはわからないが「あなたのお金がなくても私は何とか病院には行けるし、餓死はしません」と言えるようにしたかったし、今でもそう思っている。

 

私の場合はほとんど体質による問題なのか、以前に大学病院で「症状が多すぎて病名が付けられない」と言われた。健康な期間とそうでない期間がランダムに訪れるのだが、今年は今の時点で、健康な期間がほとんどない。慣れたもので「まぁ数ヶ月もしたらこんどは良くなるはず」と、強い危機感はあまりないのだが、数ヶ月に渡り収入が途絶えるのはとんでもないストレスだ。それに、たまたま今は休ませてくれる会社にいるが、将来どうなるかもわからない。今年の長引く体調不良はその不安を大いに煽った。この先体調がどうなっても生きていくため、格好良く言えば自立するため、主治医に診断書を書いてもらうことにしたのだった。

 

以前友人と自立の話をしたことがある。多分私は死ぬまで自分が思い描くような立派な大人にはなれないし、私はバカだとか、貧乏だ貧乏だとか言いながら死ぬと思う。言うなれば、一生自立できない。もっと自立したら、とか、自立できたら、とかは、ろくに買いもしない宝くじが当たったら、と同じくらい現実味のない台詞なのだ。

たとえ自立できていない私でも、いまやらなければならないと感じたら、それはきっといまやった方がいい。月日だけがいくら経ったところで、自分がより良い人間になる保証はないからだ。体調だって、今より良くなるとは限らないのだから。

 

そんなスタンスでガンガンやってきたものの、あまりに仕事を休みがちだとやっぱり「自立できていないなぁ」と思ってしまう。会社を辞めて何も考えずに身体を休めたい気持ちもあるが、意外と私は今の仕事が好きなので、それも嫌なのだ。

婚活の最中に無職になることへの抵抗もある。

在宅ワークでなんとか小銭を稼げるようになりたい、と焦りつつ、ブログを書く以外特に何もしないでいたら、いつの間にか夜が明けていた。

スキャマンダーさんと共有と共感

先日、婚活アプリで知り合った県内の男性から映画を観ようというお誘いがあり、お会いしてきた。彼(仮にスキャマンダーさんとする)は私とは20歳以上歳が離れていたため、かなり早い段階で「結婚相手としてはナシです」という旨は伝えていたのだが、まぁそれはそれで、私はあまり深く考えずにお誘いをお受けしたのだ。終わってみれば、本当に楽しく過ごすことができたし、非常に良い「オフ会」だったと思う。

プロフィール写真やアピール文の感想を交換できたので、得るものも多かった。婚活を続ける上で、こういう男性の存在は貴重だしありがたいな、と思う。

 

スキャマンダーさんから色々と話を聞かせていただく中で、最近の婚活のテーマとして「共有」と「共感」がある、と感じた。「フィーリングが合う」というやつとは違うかもしれない。具体的に同じ趣味があり、同じ体験ができること、あるいは「私もそう思っていたの!」と感じることなどだ。かくいう私も、この共有と共感に囚われている。

 

婚活アプリを使い始めると、何百人、何千人といる会員の中から「好きに選びなさい」と言われる状態になるのだが、それを無理やり淘汰するとき「同じ趣味がある異性」に絞るひとが多い。プロフィールの文章にも「ひとつでも同じ趣味があればよろしくお願いします」「◯◯が好きなので、同じ趣味の方を探しています」といった文言はよく見かける。あまりにもよく見るので、もしかしたらそういうテンプレートがあるのかもしれないが、それを掲載するということは、少なくともその文言に違和感を感じていないということだろう。

私はあまり「同じ趣味」に重きを置いていないのだが、もちろん好きなことを共有したい気持ちは理解できる。ただ私は「共有したい」という気持ちをぶつける相手が女友達であることが多い。というか、もしかすると「運命の男性」というのは激しく共感できる男性のことではないだろうか、と思うくらい、異性に共感した経験がない。

どんなに同じ経験を共有しても、結局感じることは人それぞれ違うのだ。

ところが女性同士だと、ピンとくるところが同じだったりする。同じ映画を見て「主演俳優の爪がすごく綺麗で釘付けになった」とか。異性より同性の方が目の付け所が似ているので当然だ。だから私は最初から結婚相手に対して「体験の共有」を求めない。それは友人と楽しむもので、さらに言えば女性に期待すること、と思っている。

それよりも大きな問題は、お金の価値観や宗教の違いだと思うのだが、もしかするとこれは口にしづらいのだろうか。もし結婚相手が「僕は高島屋で売っている野菜しか食べない」という主義のひとであれば、お金の価値観が違いすぎて苦労しそうだと思う。宗教も、考え方はともかく、思い入れの強さや宗派によって、お金の遣い方や時間の使い方が異なるので、絶対に軽んじるわけにはいかない。

 

あとは、オフ会の価値観。これはネット婚活でもっとも厄介な価値観だ。スキャマンダーさんも、これについては悩ましいと感じているようだった。

スキャマンダーさんと私はオフ会の価値観が似ている。まずは会って話をしよう、というスタンスだ。ネット上ではこれを嫌がる人もいるので、私も彼もそれぞれ粘り強くメッセージのやりとりを続けているのだが、そのときのスキャマンダーさんのお相手は、40代の女性であったらしい。メッセージのやり取りを繰り返し、だいぶ打ち解けてきたな、という頃を見計らって「お会いしませんか」と提案したそうなのだが、女性は手のひらを返したようになり、連絡が途絶えてしまったそうだ。

オンラインとはいえ婚活だ。婚姻届を出す日まで会わないというわけにはいかないのだし、いつかは会うのだと腹を括る必要がある。しかし、その女性に対してどんなタイミングでお誘いをすれば良かったのかは、女性の私にもわからない。

何にしろ、「まずは会おう」「これくらい話したら会いたい」「じっくり話すまで会いたくない」など、オフ会もといデートにこぎつけるまでに欲しい日数は、本当に人それぞれだ。どんなに趣味が合う相手でも、ここが合致しないとお話にならない。

こだわりの強いものこそ共有したい、同じ価値観でありたいという気持ちが強いだろう。大切なことほどなかなか共有できないものなのかもしれない。ダンブルドアとグリンデルバルドにしても、もとはといえば…まぁ、この先は映画館でご覧ください。

何もないといえば何もない11月の進捗

地獄は今日も地獄。婚活アプリを「これはこれで良いなぁ」と感じることがほぼないまま、およそ半月が過ぎた。

メッセージでのやりとりも私にとって芳しい状態ではないし、だからと言ってニューフェイスにコンタクトを取ろうという気も起きない。正直、だいぶ行き詰まっている。

とはいえ、多少は慣れてきたので「私ってこういう自己紹介文が好みじゃないみたい。でもこれって多分人格とは関係なさそうなんだよな」といった感覚的な分析は地味に進んでいる。もう少しやる気を取り戻したら、真っさらな目で男性陣のプロフィールを見直してみるのもいいかもしれない。

 

そんな中、友人の「合コンしたいなぁ」という一言をきっかけに、なんと私が合コンをセッティングする運びとなった。

男友達なんて皆無に等しいけれど、以前の街コンで連絡先を交換した男性に声をかけたところ、あっさり開催が決まった。私すごくない?2ヶ月前まで合コンと聞いても「えっ無理…◯◯ちゃんの彼氏にはもう頼んじゃったし、全然男子のアテがないよ…」という発想だったのに、いまや「ダメかもしれないけど◯◯さんか◯◯さんに声かけてみるよ」と、まさかの主催側。成長だ。私自身はともかく、人脈が成長している実感があるのは喜ばしい。

もともと友人頼みや受け身でいるのが苦痛な性質だ。欲しいものは自分の足で探しに行きたいタイプだから、セッティングや幹事の立場は性に合っている。ようやく自分が望む自分のポジションに立てた感じがしたし、ここまで細々と活動を続けて、やっと「スタート地点に立てた」と言ったところだ。

そうか。まだスタート地点だったのか。

アプリの方に気を取られて元気もないし、今回はメンバーのサポートに徹して徳を積もうと思っている。

良いご縁とまでは言わないが、楽しい夜を過ごせますように。

謙遜と女子

人には多分「謙遜しておけば間違いない」という認識がある。手土産のケーキを5個選ぶとき、とりあえずモンブランを1つ入れておくくらいの高確率で、人はここぞというときには謙遜パフォーマンスを披露する。と、思っている。

 

男性同士の会話はあまり聞いたことがないのでわからないが、女性は謙遜コミュニケーションを重視する傾向が、ある気がする。「えーそんなことないよ〜」がスマートに言えない女性は、メスの群れの中では少し浮く。特に職場などの閉ざされた群れでは「空気読めないひとなのかな」と思われ、信用を得にくいのではないか。

 

以前の街コンで、攻撃的なまでに謙遜する女性に出会った。攻撃と謙遜とは一見矛盾したものなのだが、ところがどっこい矛盾しないのだ。

「お姉さんほんと美人ですよね!!!私ほんとブスなんで!デブだし!この中で1番ババアだし!いいとこないんで!!!は!?!?お姉さんがブスだったら私どうしたらいいんですか!?!?死ぬしかなくないですか!?!?何言ってんですか???お姉さん超美人ですよね!!!!マジ一緒にいるの恥ずかしくて帰りたいです〜〜!!!!!」というのが延々と続く。地獄。私の精一杯の謙遜に、もはや何の意味もない。自分を卑下し、相手を褒めながらも常にアグレッシブで、まさに攻守一体のプレイスタイル。あの攻撃性を発揮する場が街の居酒屋ではなくサッカー場だったら、良い選手になっていたと思う。彼女もどこかでコミュニケーションに苦しんだことがあり「謙遜すれば間違いない」と学んだひとりなのだろう。ぶつかって、失敗して、散々悩んだ末にあの拗れたスタイルになってしまっているのが、少し悲しい。

 

こんなことを書いてはいるが、私はあまり謙遜しないし、謙遜パフォーマンスが好きでもない。大体、多くの人は「いえいえ私なんか」と言われること自体が気持ちいいのではないはずだ。私たちは「いえいえ私なんか」で一旦褒める流れを断ち切るのが気持ちいいのだと思う。なぜかといえば、そうすればメリハリのある会話が続けられるから。メリハリというと感覚的すぎるかもしれないが。


まあ「かわいいね」と言われて「そんなことないけど〜この前も駅で声かけられちゃって〜なんで私に声かけたのかな〜この前も〜」と中身のない自分語りが始まってしまえば、冒頭の「そんなことないけど〜」に意味はない。誰かの一方的な自分語りが始まると、私なんかは「あっメリハリがなくなったな」と感じる。逆に「確かに私はバッパから村で一番の小町って言われて育ったわ。でもあなたも最近小町みが強いと思う。髪を切ってから大人っぽくなったよね」と、相手にボールを返すような返答は「とりあえず謙遜」より私好みだ。せっかく相手から頂いたありがたい褒め言葉を、謙遜パフォーマンスのために「いやいや全然そんな」と否定するのはもったいないし。女性同士で肯定マシマシ会話をすると本当に楽しいので、経験のない方は試してみてほしい。

 

ただここ最近に限っては、肯定マシマシ謙遜抜き自慢大盛りトークが難しいな、と感じる。というのも、婚活アプリで見かける男性の自己アピール文が、自慢のように感じてちょっと鼻についたり、逆に卑屈に見えたりすることがある。

あの手のプロフィール文は、自分のセールスポイントをできるだけ書き起こしつつ、好感度も下げないようにしなければならず、確かに匙加減が難しい。ちょっとした印象の悪さは「書き方のせいかもしれないから」とあまり気にしないようにしているが、そもそも私の自己アピール文だって、一体どういう印象を持たれているのか。考えるとそれは少し恐ろしい。