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良薬くちにアメル

酸いより甘いより苦味が強い、日々の記録を残していきます

貧乏人が平成の男女のお会計について考えてみた

あけましておめでとうございます。2019年初めての記事だというのに、いつにも増してとっ散らかっておりますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

新年早々、私は自分の中に見つけた「男女不平等の価値観」と格闘している。

きっかけは少し前に遡って、街コンで出会った男性と合コンをした際に感じた、些細な引っ掛かりだった。男性の幹事が「(自分たちが多く払うので)女性は2000円でいいですよ」と言ってくれたとき「なんて出来た幹事だろう」と嬉しく思うのと同時に「なんで払ってくれるんだろう…」と素っ頓狂な疑問を抱いた。食事中に年収が低くて困っている話なんてもちろんしていないし、おそらくは単純に「男性は女性より多く支払うもの」という、いにしえから言い伝えられる合コンの伝統を守ったのだろう。それにしたって、渋々支払うのならこちらにもその「渋々な感じ」は伝わるものだ。少なくとも彼は「今日はお会いできて嬉しかったんで、僕が多く出しちゃいます!」と感じさせるよう努めていたと思う。嬉しいよ。そんなの不快なわけがない。以前食事の際に「絶対にお前の分は支払わない」という強い意志を見せた男性がいた。特に「今日はワリカンでいいですか?」というような相談もなく「お前の分は払う気ないから!多めにも払いたくないから!でもそれはお前がご馳走してって言わないから出さないだけでオレはケチじゃないし!」と、背中で語っていた。私としては「べつに自分の分を自分で払うのはいいけど、パフォーマンスでいいから“イヤ〜僕がご馳走する意志はあったんですけどね〜”みたいな顔はしろよ」という感想だ。だってご馳走するひとだって「べつにオレがおごるのでいいけど、おまえも財布出すふりくらいしろよ」と思うんじゃないか。パフォーマンスなんてバカバカしいとか実際どちらが払うとか、そういう話ではなく!気遣い!自分はあなたに価値を感じていますよとか、あなたのご負担になりたくありませんという、ささやかなアピールチャンス!身もふたもないけれど、ひとのためにお金を使う(使おうとする)というのは、好意の表し方としてとてもわかりやすいし、知り合って間もなく、お互いをよく知らない男女にはうってつけのアピール方法のような気がする。

合コンでの男女支払ギャップも、おそらく本来はそういったアピールだったはずだ。

しかしながら、男性が男性であるからといって、当然のように女性にお金をかけなければいけない文化は、もはや時代に合っていない、とも思う。確かに男性が女性よりも高収入であるデータはあるけれど、だからといってその辺りにいるごく普通の男性が、月に5回のデートで5回ともディナーをご馳走してくれるくらいに裕福だろう、とは考えにくい。女性はそれを理解していて、わざとランチタイムのデートを提案したり、カフェでお茶を飲むときは「私が払うね」と言って多少バランスを整えていないか?と思っているのだけれど、どうなんでしょう。そういう観点でいえば、先ほどの背中で語る系ワリカン男子は現代の象徴だ。おそらく「実は毎月カツカツで、次のデートはマックでもいいですか?(笑)」とかなんとか、ちゃんと言ってくれたら、私だって低所得者の気持ちがわかる女だから「マック好きだから大丈夫(笑)今日もワリカンにしましょうね、私も気が楽だし」とか言っちゃって、あれほど悪い印象にならなかったと思う。そういう前フリがほしい、と思ってしまうのは、やはり私の中に「男性が多く支払うもの」というどこからか仕入れた伝統的な価値観があるからに他ならないけれど。

ともあれ、多くの場合、月に旅行するような余裕があるわけでもないのに、男性は少ない賃金の中からお金を出してご馳走してくれた。

優しい。

なんだか、最近急にそう思った。彼らは「おまえだって働いてるくせに、なんでオレばっかり出さなきゃいけないんだよ」なんて言わず「男女平等?なんかよくわかんないけど、親からもそう育てられてますのでいいんですよ〜」と、面倒くさい理屈をささっと掃き清め、自分は古い男なんで!みたいな顔をして甲斐甲斐しくしてくれる。

お金を出すこと自体は優しさではないかもしれないけれど、都合良くいにしえの伝統文化を持ち出してきてくれるところは優しさと言って差し支えないよなぁ、と思うのだ。

だって、伝統文化はそれ自体は良いものとは限らないし、善意のない使い方をすると怖いものである。

具体的に言うと、女性が「デートで車道側を歩いてくれない男マジありえない」と言って一蹴するようなことだ。

いや、車道側を歩いてくれない、つまり「私を大事にしてくれない」と思って傷つくのはもっともなのだけど、車道側の男はどうなってもいいのか?という疑問が昔からありまして。高いところに座って、いにしえの言い伝えに則り相手を採点するような姿勢だってそもそもどうかと思うけれど。

車道の話はともかく、昔から言い伝えられる男女間のマナーやルールは、おそらく時代の変化に伴い移り変わるはずだ。いくら世間で当たり前のように言われていることであっても「はたして自分や相手にとって必要不可欠なルールであるか」をひとつひとつ考えるべきかもしれない。先ほど「お金を出すことは好意の表し方として適当」と書いたけれど、もし女性側がその好意を窮屈に思うタイプならば「こういうわけで、今度から食事のときはワリカンにしてほしい」と話し合うのが健全なように思う。

支払の件をはじめ「デートは男性が演出してエスコートする」とか「何でもない日にプレゼントを用意する」とか、まぁ詳しくは西野カナの歌の歌詞を見ていただきたいんだけれど、とにかく男性に求められる負担が大きいことが、私は少し居心地悪い。これらを本当にすべてこなしている男性というのはなかなかいないとは思うけれど、この「特に意味のない不平等」に憧れて、優しい彼氏に甘える気満々の女子大生などを見ると、妻をママと勘違いして妄想を逞しくしている若い男の子と似たようなものだなぁと感じる。

しかし、平成30年の時点で男性側がこの不平等に対し、私の知る限りでは大きな不満の声を上げていないことがちょっと不思議だ。「だってそんな貧乏ちいこと言ったらモテないから」という言い分はわかるし、女性の責任でもあるけれど、今時の日本人が大概貧乏なことは女性の我々もわかっているので、なんだかもやもやとする。というか、現在の風潮だと、その不平等を円満に解決するには「ワリカンでいいよ」とか「そんなに頑張らないで」とか、女性の方から「声をかけてあげる」感じになる。いわゆる家事育児をしない夫が共働きの妻に「今日はチャーハンでいいよ」と言うのに似た気持ち悪さがあるが、価値観を見直す過渡期ってこんなものなのだろうか。

誰だって自分たちの不利益に対して感じるところがないはずはないと思うのだけれど、多少の不利益や苦労に対してなあなあで「男は見栄っ張りだからいいんだよ」とか言って(これはスキャマンダーさんに言われた)、デート時のさまざまな男女不平等に甘んじている男性たちは、やはり優しいのではないか?と遅ればせながら気づいた次第です。かわいいから許しちゃうとか、世話を焼きたいから焼いてるとか、わがまま言われると嬉しいとか、そういうのって…そうか…なんか、今までありがとうね…という気持ちになってしまう。私のほうには男性に対してそんな思いを抱くことが少なかったから尚更なのだろう。

男性優位社会における男性のプライドとか、そんなものではない。単純で朴訥な優しさ。

 

本当に、随分ととっ散らかった文章を書いてしまった。たぶん、ちょっとデート時の不平等に対する思いを、長年溜め込みすぎた。なにしろ私の中でまだ「男女不平等の価値観」の折り合いがついてないから、書き足りない気持ちがどうも拭えない。

 

なんだかずっとお金の話ばかりしてしまいましたが、男だから、女だからではなく、お互いに「あーこのひとに大事にされているなぁ」と感じられればなによりのはず。お金を使うことと車道側を歩くこと以外で「あなたは私の大切なひと」というアピールの仕方を、ぜひたくさん知りたいものだ。