地獄の門
気が乗らずに悶々としていたが、遂に婚活アプリを始めた。しかし開始して6時間で「不毛な高望みの連鎖だわ…」と絶望。
あまりにも写真がすべて…。どんなにプロフィールに素敵なことを書いていようが、写真が悪ければそもそもページを開きもしない。かくいう私もスクロールの鬼。打っては返すスクロールに次ぐスクロール。自分もこうやってスクロールされているのだろう。ここに載るものは一切の希望を捨てよ。
とはいえ、そんなやり方になるのも当然といえば当然だ。会員数がそこそこ多ければ、めぼしい条件が合うひとは全員チェックしたいし、自然と選定の方法はざっくりにもなる。そのくせ「変なひとに引っかかりたくない」という自衛の気持ちがかきたてられて、あまり相手を(しいてはアプリのシステムそのものを)信じていないため「せめて顔くらい好みじゃなくちゃやってらんねぇ」と、謎のネガティブを発揮する。
オフラインであればあるはずの第一印象がないというのは、こんなにも心許ない。出会った瞬間のあの3秒で、今までどんなに多くの情報を得ていたのか、と思うと、私の背筋もちょっと伸びる。
今のところ、私に対するアプローチは40代と50代からが多い。というか、大半を占める。傾向的に、若いひとほどアプローチのメッセージが丁寧だ。丁寧と言っても「プロフィールを読んで良いなと思いました」とか定型文レベルの文章なのだが「ぽっちゃりが好きなんで連絡ください」みたいな、繁華街にある壁の落書きと大差ないメッセージよりはマシだ。これのせいで朝一番に発した独り言が「きえてなくなれ〜〜!!!!」になった。だって私からは一切ぽっちゃりアピールしてないのに。せめて「写真が素敵です」とか言え。頭つかったことは言わなくていいけど気はつかえ。
数少ない私からのアプローチも一方通行だ。マッチングする気配が微塵もない。「私そんなに高望みしてるかしら…」と思うし、アプローチを送ってくる50代の男性に「おまえら高望みやぞ」とも思うが、アプリだとこんなものなのだろうか。
1人くらいは会う約束を取り付けてから退会したいな、と、今回の私の目標はずいぶん控えめだ。控えめすぎて、会員費が痛い。
腰が重い理由
「大好き!欠点も全部まとめて愛しい!」という好感の高い気持ちを100点満点とすると、私が婚活で出会う男性への好感度は、−2点くらいからスタートする。
異性と接するのが難しいと感じるのは、異性のきょうだいがいない男女にはよくあることなのだという。私も男兄弟がいないのだが、正直、どうせ知らないひとに会うなら女性に会いに行く方がきっと楽しいと思うし、初対面の男性とコミュニケーションを取るのは結構面倒臭い。
しかし、友人の恋人や結婚相手など、ある意味男性と見なさなくてよい男性と話すのは好きだ。自分との相性が良いとか悪いとか、シビアな観察を抜いて肩肘張らずに楽しい時間を過ごすことができる。しかも彼らは「自分が信頼を置く友人たちが一目置いている男性」なわけで、私も会う前から多少信頼しているのだ。当たり前だが婚活の場で出会う男性とはまったく異なる。見知らぬ異性への漠然とした警戒心や不信感と、あとは緊張と疲労の予感のせいだろうか。それらが冒頭でいう−2点に繋がっている。
それでも私からすれば、婚活パーティーへの参加は婚活アプリを使うことに比べたら面倒ではない。本当に面倒くさい、婚活アプリ。会ったことのないひとと短いメッセージでチョロチョロとラリーを続けるのが、億劫で仕方ないのだ、なぜか。
それでも婚活の場を関東方面に移すならば、今こそアプリを活用するタイミングかもしれない、とも思う。
マンネリにも婚活疲れにもまだだいぶ早いのだが、最近街コンに行こうにも着ていく服に悩んでしまい、にっちもさっちもいかなくなってしまった。早く冬になってくれれば多少着るものもあるのに。
美人とブスのあいだ
以前女性向けのファッション誌を読んでいたとき、男性のメイクアップアーティストが女性の美容の悩みに答えるスタイルの特集があった。その中で「毛穴の開きを気にしている」という悩みへの回答が「男性はそこまで見ていない」というものだった。このとき求められた回答は、絶対に毛穴ケアの方法だったと思うのだが、案外本質的な回答だったかもしれない、と今でも思う。
男性はアバウトな雰囲気やごくごく個人的な好みと性癖で「美人」か「ブス」かをジャッジしている、というようなことを耳にしたことがある。確かに、ディテールを気にするのはむしろ女性だ。女性が真剣に女性を「美人」か「ブス」かとジャッジするとき、おそらく何度も判定が揺らぐ。納得のいく結論が出ないこともある。肌のあれこれ、骨格のあれこれ、メイクや表情のあれこれに髪のあれこれ、視覚の面だけでなく声や香りのあれこれも。多岐にわたるディテールをひとつひとつチェックするからこそ、一概に「ブス」とか「美人」と決めつけることが困難なのだ。
学生の頃「この世に絶世の美人なんているのだろうか」と本気で思っていた。その頃は自分の中にこれぞ理想の女性、というアイコンがなくて、どんなアイドルや女優を見ても、素直に「絶世の美女!」というふうに思えなかった。同時に、幼い頃から知っている友人などを「こいつ、実は美人だったのか」と思うことが増えた。
当時は「よく知らない人」を「美人だ」と感じることが難しかったのだと思う。実は顔立ちなんかたいして見てはいなくて、対面し、所作を眺め、話をしたりして、人間としての魅力を感じればなんとなく好ましい、つまり「美人」のように見えていた。まったく化粧をしない、バージンヘアのオタク女に対してさえ「骨格が良いから髪型変えたらめちゃめちゃ美人になるわ」と欲目全開。当時妙に男性的なジャッジをしていた私の手にかかれば、近しい友人たちは全員美人判定となる。
学校を出て人間関係が広がるにつれ、ますます私の「美人」と「ブス」の境は曖昧になっていった。
おそらく美人の条件は、特にない。
どんなに美しいと評判の女性だって、私にとって気に入らない女であれば「笑い方がブス丸出し」とか「でも横顔のっぺりしてるじゃん」とか、自分のことをいくらでも棚に上げて文句を言えるし。私は誰だって美人にできるし、誰だってブスにしてしまうのだ。
自分のことだって例外ではない。
婚活の場や街コンでは、あまり自分サゲをしないようにしている。「私ブスだから」と言って「確かに言われてみればブスかも」なんて気づかせることにメリットはないし、最悪「わかってるんならもっとなんとかしろ!」とイラつかれそうである。
理由や良し悪しは置いておくとして、世間ではブスは怠慢であり、ブスであることは罪なのだ。だからとりあえず、最善の手を尽くした上で美人のふり。
しかし、何の根拠もなく美人のふりをするのは骨が折れる。「本当はブスなんだけど」と思いながら「私は美人よ」と自分に言い聞かせるのは、やはりちぐはぐだから、長く続けてはいられない。自分に対して自信がなく、ネガティブなときは特にそれが顕著だ。もう無理、どう頑張ってもブスはブス、と罪なるブスに甘んじたくなる。
そんな辛い日々を過ごしていた私だが、昨日、思い立って合わせ鏡で後頭部のスタイルをチェックした。髪が短くなったことで、急に自分の頭蓋骨が絶壁かどうかを確かめたくなったのだ。横顔のチェックは何度もしているが、そういえば後頭部の形は今まであまり気にしたことがない。触った感じが芳しくなかったため、恐る恐る鏡を見てみる。しかしそこには思いがけず、丸みを帯びた美しいカーブがあった。
俄然自信が出た。俄然やる気になった。
そういうわけで、昨日の夜、突如私は美人になった。長らく誰にも容姿を褒められず、自信をなくしてゆく一方だったのに、まさか30歳を過ぎてから自力で美人ポイントを見つけることができるとは思わなかったが、棚からぼた餅鏡から美人。
いつか自信をなくしたとき、傷ついたときは、また合わせ鏡でこの美しい丸みを愛でようと思う。
どんなに鏡を見つめても自分がわからないときがある
自分の価値について考えることがある。
近年は妙に色々なことに自信がなくて、ともすれば後ろを向いたままぐずくずと立ち止まることが多い。年齢を重ね、人間としての視点や社会での立ち位置が変わっていくことに、適応しきれていないせいもあるだろう。今まではただ楽しく船を漕いでいたのに、進路の先でちらちらと光る灯台のように「出産のリミット」や避けられない困難が見え始め、とにかく考えなしではいられなくなった。
加齢自体を悲観することはあまりないが、年齢と比較して収入が低いことはコンプレックスだし、実家からの援助も期待できないので、本当に経済面での私の価値はないに等しいと思う。
「隣にいてくれるだけでいいよ」と言ってあげたくなるようなルックスでもなければ、癒し系の気配り上手でもない。そういえば忘れがちだが、最終学歴も大学ではなく専門卒だし。
でも、名前のない料理をちゃかちゃかと作るのは得意だ。安い服をそれなりに美しく見えるように着るのも得意。興味のあることや趣味が多いから、幅広い話題の引き出しを持っている。
強みらしいものはそれくらいだろうか。それだけと言ってしまえばそれだけのような気もする。白状すると、今まで自分の価値については「まぁ子供が産める年齢だしとりまグイグイいってみるわ」くらいの気持ちで棚上げ状態だった。それでも受け入れようとしてくれる男性は一応いたので、長らく目を逸らしたままでいられたのだけれど。
自分の価値を思う。たいして高くはないような。私の相場に釣り合う男性像が、よくわからない。
自分の持っている釣り竿で、果たしてどのくらいの大きさの魚が釣れるのかわからないまま水面に糸を垂らしている気がする。もしかしたら、これはコイキングしか釣れないボロの釣り竿かもしれないのに。そんな釣り竿を握りながら私は「はやくミニリュウ釣れないかな〜!」なんてワクワクしているのだろうか。釣れないわミニリュウ。早く教えてあげて。
そもそもなぜこんなことを考え始めたのかというと、東京の婚活パーティーに遠征したいな、と考え始めたからだ。もともと東京のほうに行きたいと長らく言っていたのだが、婚活や結婚でそれがうやむやになってしまうのが、急に我慢ならなくなった。といっても、東京で働きたい、関東に住みたいという気持ちがあることは、婚活の場で結構公言していた気もする。抑えつけているようで、やはり私にとっては譲れないライフプランなのかもしれない。
問題は地方都市からたまに遠征してくる貧乏ったらしい田舎女を、面倒臭がらずに相手にしてくれる男性がどれだけいるかだ。ただでさえモテないのに、滅多に会えない女なんてネックじゃないだろうか。
いやもう、モテる女を演じきるしかない。滅多に会えないというネックを希少価値に変えて、最後まで価値のある雰囲気で騙しきるしかない。あわよくば「隣にいてくれるだけでいいよ」と思わせるために。
結婚しようがしまいが、自分の機嫌は自分で取るしかないように、自分の幸せは自分で掴むしかない。やりたいことは自分で始めなければいけないし、欲しいものは自分で手にいれなくてはならない。今までもずっとそうしてきたし、なるべくちゃんと手に入れてきた。できるだけ自分を幸せにしてやろうと頑張ってきた。今の私にとって過去の私はちょっとしたヒーローで、ちゃんと価値のある女だったと思う。
世間的には私はボロい釣り竿で、道行くトサキントなどにはなめられているかもしれない。だけど悪くないところだってちゃんとある。ちょっと磨いて手を加えれば、角度によってはいい釣り竿に見えたりもするはずだ。アズマオウやタッツーが思わず「あれ?いいやつじゃん?」って言ってしまうような。自撮りでも奇跡の1枚とかあるし。
モテ見え、頑張ろう。
という経緯があったりなかったりして先日、髪をバッサリと切ったのだった。非モテとも言われるハンサム風ショートボブだ。あまりに見慣れなくて、鏡を見るといまだに不思議な気持ちがするけれど、結構気に入っている。新しい髪型に似合う口紅を、はやく買いに行きたい。
下戸徒然
「お酒を飲めない」という話をしているとき「どのくらい飲めないの?」と執拗に聞かれたことがある。
そんなことを聞かれたのは初めてだったので、なんだか妙にまごついてしまった。「缶ビール1本飲んだら確実に寝ちゃいますね」とか、そんなような返事を期待されているのは通じるのだが、そのときの私は「だからお店に行ってもお酒頼まないんだってば!それとも体質のことがそんなに詳しく知りたいわけ!?いやいや絶対飲めない人のことがわかってないだけだわ。お酒が飲める人目線の質問、めんどくさいな〜」と感じた。
私は19歳のときから睡眠導入剤などの薬を服用し、現在まで服用を続けている。薬のバラエティは当時と変わっているものの、アルコールと相性の悪い薬ばかり飲んでいることに違いはない。そのせいもあってお酒にはめっぽう弱い、はずだ。実は、自分がどの程度の下戸であるのか、30歳を過ぎた今でも正確には把握できていない。そんなレアケースにまで気を遣えと言うつもりはないが、ともあれ件の質問は、どうやら「あまり飲める体質でない人」である私が「飲まない」という選択で長らく自衛をしてきたようだ、と気が付くきっかけとなった。
はたちそこそこの頃に、酎ハイやカクテルを飲んだ経験は確かにある。しかしいつからか一切アルコールに手をつけなくなった。具合が悪くなったり、夜に寝付けなくなったり、そもそもたいしておいしいものでもないじゃないかと思ったり。「飲んでもあまり良いことがないようだ」という結論に至ってしまった。あるとき急に気が付いたというよりは、だんだんとアルコールと付き合うのが面倒になってブロックした、というイメージが近い。
たいして好きなものではないから、どれくらいまでなら飲めるのか、どれくらいから頭が痛み出すのか、なんて試したことはない。おまけに私の場合は薬の量が増えたり減ったりするから、アルコールへの耐性も都度変わっているだろう。
仮に薬などとはとんと縁がなく、生まれついての下戸だったとしても、あまり変わらないのではないか、と思う。
「そりゃアナフィラキシーショックは起こさないけど…」
アルコールとは、どこかが痛くなったり苦しくなったりするかもしれない毒なのだ。少なくとも私は、わざわざたくさん飲んでみようとは思わない。
「具合悪くなるの怖いから、試したことありません」と、あのときも確か答えた。苦し紛れに絞り出したにしてはかなり正直なアンサーだったと思うのだが、質問の主はなんだか腑に落ちない顔をしていた。
確かに、私は少し慎重すぎるかもしれない。多くの大人はたまに羽目を外してお酒を飲んで、失敗して学習し、またたまに失敗するものなのだ、と言われれば、まぁそうかも、と思う。「自分は熱燗を一合飲んで酩酊し、上司の膝の上にゲロを吐きました。ワッハッハ!」みたいな武勇伝のひとつやふたつ、嗜みとして持っておくべきなのかも。
とはいえやはり、お酒なんかのためにリスクを負うほどお酒を愛していないし、おいしいと思っていないから大量に飲むこともできないのだけれど。
ちなみに、アルコール自衛術は、案外地方都市では通用する。この辺りは車社会なので、多くの場合、好き嫌いに関わらず「飲まない」という選択肢が市民権を得ているのだ。
しかし電車での移動が当たり前の都心であったら、もしかして「一滴も飲めないわけじゃないんでしょう?飲めるだけ飲みなさい、乾杯だけでもいいから」などと言われるのが普通なのだろうか。それならば確かに自分がどれほどのアルコールを飲めるか、自己申告のための設定が必要だ。
あぁ、もしかしてあのとき、私はその設定のことを聞かれていたのかな。
いや、わかんないけど。
立場、体質、出身、職業、性別などなど。自分以外のもののことは、本当にいつまでもわからないものだな、と、何を考えてもだいたいそんな感想に至って終わる。
女友達の壁を超えて来い
気になる男性と親しくなり、付き合うかどうか・結婚するかどうかを考える際、必ずぶち当たるのが「女友達の壁現象」だ。私が勝手にそう呼んでいるだけで、女友達に恋路を邪魔をされるという意味ではない。話をするのが楽しくて、共通の趣味がある程度では、年季の入った「女友達」の魅力には勝てないという意味だ。
特別な関係へシフトすることを考えるとき、私の場合は女友達にはない魅力があるかどうかを基準にしている気がする。それはもちろん「一緒に過ごしたい」と思うほうに時間を割きたいからだ。今までもそのジャッジにより、異性に対して「そこまで大切な存在ではないな」と急に冷静になることが多々あった。
容姿や財力で男性を選ぶことを良しとしない風潮もあるが、その2点はまさに女友達にはない魅力であると思う。おそらくその点が優れていれば、女友達の壁を乗り越えることは難しくないはずだ。しかし逆の場合はどうすればいいのだろう。
スポーツが得意?
おいしい料理を作ってくれる?
アウトドアに詳しくて頼りになる?
この辺りは好みもあるし、自己申告では発見できない魅力だから、もしかすると最後まで見過ごすかもしれない。
しかしこんなことを言い始めると、どんどん婚期が遅れてしまう。要するに「いい人だけど、もっといい人がいるのでは?まだ探す時間もあるし」ということだ。私はアラフォーになってから「もっと早く婚活していればよかった」と思うのが嫌で婚活を頑張っているはずなのだが、どうやら「まだ少し時間がある」ということがネックになっているらしい。
しかし、私が「壁」と呼んでいる壁は、現実には存在しないということも理解している。実在するかしないかもわからない、自分基準の「決め手」探しで無駄に悩むのだ。無駄に悩んで気持ちの整理がつくのを待っている。自力で決断するように見えて、実はその間相手の粗探しをしているし、どちらかの気持ちが変わるのを待っている。
決断できないという欠点は、いつまでも結婚ができない人が克服しなければならない問題点のひとつかもしれない。
以前友人から「結婚相手に求める条件リストを作るといいらしい」と聞いた。確かに、自分であらかじめ用意した条件に当てはまるかどうかが可視化されるので、決断できない人にとってはうってつけだと思う。ただ、×がひとつだけ付いたときにどうするか悩みそうなので、私はまだ作ってない。
第1回中間発表のようなことを書いてみる
アメリカのドラマのように、たまたま入ったコーヒーショップで出会ったひとと恋に落ちるような展開は、どうやら私の人生にはないみたいだぞ、と気付いたのは案外最近だ。バス停で意気投合したひとと連絡先を交換したり、同じ居酒屋にいたひととタクシーを相乗りして以来仲良くなったりと、中途半端にドラマティックな出会いを経験していたせいで気付くのが遅れた。
確かに確かに、そこそこ私の人生はドラマティックだったかもしれない。イギリス人から「結婚を考えて付き合おう」とLINEで言われてすぐに既読無視される、とか。だが、たまたま入ったコーヒーショップで婚約者ができたことはないし、きっとこれからもそうだろう。
未来の結婚相手である誰かと、職場や街角でバッタリ出会う可能性をゼロと考えられるようになると、婚活が楽だ。こんど行くパーティーのことや、街コンで連絡先を交換した誰かのことだけを考えればいいのだから。
私は無期限で頑張ることが苦手なタイプだけれど、婚活の最終目標というか、日々のテーマは「後の人生で悔いが残らないくらい真面目に取り組むこと」としている。ゴールを「結婚すること」としていたら、もしかするともっと苦しかったかもしれない。
今のところ、案外楽しく婚活している。
思っていたより色々なひとと、色々な話ができた。沖縄や九州から来たひと、聞いたことのない仕事をしているひと、ハーレーを乗り回すオタク、午前中ちょっと波に乗ってからやって来たパリピに、有名人のそっくりさんもいた。興味深い女性との出会いにも恵まれた。彼女とLINEアドレスの交換ができたとき、嬉しくてちょっと舞い上がってしまったのは、今思うと少し恥ずかしいけれど。
出会った場所がたまたま入ったタリーズだったら、挨拶さえしなかっただろう人々だ。もう何人の見知らぬ人と話をすることができたのだろう。
私の婚活はまだまだ続く見込みだし、すぐに終わるということはないかもしれない。だが、東京オリンピックが始まるまでには終わる。最初にそう決めた。
それまで今の気持ちをなくさずに婚活を続けられたらいいな、と思ってブログを書いた。
キャッツとの初デートはとても楽しかったし、好きかどうかはともかく、私は「また話したい」と思った。刹那的な雑談が面白くて、鮮やかな印象が残るような会話を挟めなかったことだけはとても気がかりなのだけれど。特別な日のためのレミーマルタンみたいに思われたいのに、彼の中で「とりあえず安いし飲みやすいからまた同じのでいいかな」とリピートされるトップバリュの発泡酒みたいなポジションにまわされたんじゃないだろうか。うーん挽回したいな。印象を操作するのって難しい。
今回は「顔の横で揺れるピアスやイヤリングが良い」という伝説を全力で肯定し、普段あまりしないアップスタイルに挑戦した。イヤリング以外の情報が邪魔をしないように、アイメイクは控えめにしたし、上半身は無地の服を選んで、ネックレスも付けなかった。
こういうちょっとした戦略について考えを巡らせることも楽しいのだと思う。髪型について触れられたとき、べつに何の成果でもないのだが、謎の手応えを感じて、何かがひとつうまくいったような気分になった。我ながら思い込みが激しい。
キャッツに会うことと並行して街コンに参加するかどうかはまだ決めていない。並行しても構わないとは思うし、私は集中すると周りが見えなくなるタイプだから、ネコまっしぐらにならないためには参加したほうが良いように思う。
それについても考えよう。じっくりじっくり考えようと思う。