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良薬くちにアメル

酸いより甘いより苦味が強い、日々の記録を残していきます

お久しぶりです

東京オリンピックの開会式までは婚活を頑張る」と言って始めたブログですが、記事を更新するのは1年ぶりになります。

潰瘍性大腸炎が見つかったところで途切れさせてしまいましたが、昨夏には寛解状態(と言っていいはず)に入り、わりと元気に過ごしています。

さて、オリンピックの開会式は来年に持ち越しとなったようですが、あのあと婚活は一切していません。もともと結婚することが目的というよりは「将来後悔しないように婚活を頑張ったという実績」を作ることが目的でしたので、リタイアが早くてもまぁいいのです。

婚活パーティーで、合コンで、面会で、私は些細なことにイライラしていました。婚活ってなんでこんなにイライラするんだろう?と不思議に思ったものです。

結論からいうと、かつては自分の価値観と感情が一致していなかったように思います。

以前からブログには「女にマウントを取りたがる男はダメじゃないか」というようなことを書いていましたが、今当時の記事を見返すと多少の違和感があります。以前より男尊女卑や、あるいはその逆の価値観に対する嫌悪感と違和感を、なぜイヤなのかという考えとともに、正確に自覚できるようになりました。

自分で思っていた以上に、私は性差別が嫌いでした。しかしながら、これまで受けていた教育や仲間と共有してきた「差別あってこそ」の価値観がありますので、「それは性差別だ」と叫ぶ本心はそれらに覆い隠され、謎の違和感や出自不明のイライラとしてしか認知できなかったのです。

そうしてあるとき視点が変わり、あれよあれよと様々なものの見え方が変わり、婚活を断念するにまで至ったのです。

なぜ急に視点が変わったかについては納得の理由ときっかけがありました。

最後のブログの中に「インフルエンザの最中にフラれた」と泣きっ面にハチな出来事をサラッと書いたのですが、あれです。

あのときのお相手は婚姻が可能な女性でした。「これが男相手だったらイラッとして二度と関わらないだろうな」と思うことが幾度あっても「でもそんなところも可愛い!不思議だな〜」と感じながらやりとりをしていた記憶があります。欠点や、自分と相性の悪いところに目を瞑れるどころか、かわいい!とまで思えるのは新鮮な感覚で「あ、もしかして私はあんまり男性が好きじゃなかったのかもな」とわりとすぐ気づきました。同時に、女同士なのに一緒にいると彼氏っぽくなってしまう自分に驚いたものです。これは相性だと思うので、別の女性と付き合っても必ずしも私の彼氏力が強く出てくるとは限りませんが、男性と二人きりで出かけるときの「ときめきを伴わないむず痒さ」と比べると、かなり心地の良いものでした。

先の病気の件なども重なり、色々あって私は「本当に居心地の良い生活」をテーマに、人生をやり直すことを決めました。

髪型やメイクもガラッと変えましたし、好きか嫌いかだけではなく、「違和感がないか」「心地が良いか」という目線で服の好みから対人関係まですべて見直しました。そして現在、地方の実家を出て東京で一人暮らしです。

自分を男性だと思うか?と問われれば「そうではないっぽい」のですが、女性性と完全に和解できているかどうかは怪しいところです。

また、レズビアンなのかどうかについても「わかんないけどイヤじゃないっぽい」くらいの答えになります。経験が足りないので自分でもよくわからないのです。もしかすると「トランスジェンダーが好き」「女装家が好き」みたいな、恋愛成就の難易度がめちゃめちゃ高い嗜好かもしれません。

ただ、どちらも私にとっては「よくわからないということが判明している」という気持ちの良い状態なので、しばらくはハッキリしなくてもくよくよ悩むことはなさそう、と感じています。

しかしながら、べつに「男性があんまり好きじゃないっぽいから婚活をやめた」というわけではないのです。身の回りを整えているうちに、一人暮らしを愛し過ぎてしまったというか、結婚よりもやりたいことがたくさんあることに気づいてしまったというか、とにかく「今はまったく結婚したくない」と感じているから婚活をしていないというか。こうやって書くと当たり前のことですが、未来のことを考えるのをやめて、現在に100%集中したら自然と現在の生活にシフトしていきました。

子供が何人欲しいとか、何歳までに結婚したいとか、いくつかの夢は棚上げにせざるを得ませんが、現在どうしてもしたいことに比べたら、それらは私にとって、棚上げにできる程度の夢、とも判断できるわけです。

まぁ、子供が欲しいというのはひとりで叶えられない上に運次第のSSRな夢なので、なんでも自力でやりたい!自分で選びたい!というきらいのある私にとっては棚上げしやすい問題でした。欲しい気持ちは変わらないけれど、人生の目標にはできません。

 

今の生活が落ち着いて、気が向いたらまた恋愛してみようと思います。まずは好きなジェンダーを探すため、二丁目あたりに行ってみようかと思案しています。ところがどっこい生憎の緊急事態宣言。2月頃からずっとレズビアンバーに行く約束を友人としていたんですけどね。当面は居心地の良い我が家でおとなしくしているしかありません。

コロナが収束したら、歌舞伎町に愛を探しに行った話を書ければいいですね。

疫病神に愛された平成最後の冬

後厄の厄が強い。

1月半ばに東京へ行き、帰ってきてからなんとなくずっと具合が悪かったのだが、2月の上旬、たいして外出もしていないのにインフルエンザに罹った。40度を超える高熱が出たせいかどうかはわからないが、その日から自分の嗅覚と味覚に違和感を感じ、まったく食事が摂れなくなってしまった。母に「妊婦みたい」と言われながら1週間を過ごし、今度は激しい腹痛と下痢に見舞われた。これがまた、眠れないほどひどい。数日下痢に悩まされて、そろそろ痔になるんじゃないかと心配していた頃、ついに便に血が混じり始めた。

私の父は大腸ガンで他界しているので、母も私も血便には敏感だ。慌てて胃腸内科へ行くと、ここでも「お父さん大腸ガンだし!ね!」と、なんだか地味に不安を煽られながら内視鏡検査を提案された。年齢的に潰瘍性大腸炎かもしれない、とも言われた。

内視鏡検査の直後、先生は「ガンではないけど」と念を押しながら「大腸炎かな」と言って整腸剤を処方してくれた。潰瘍性大腸炎ではないみたいだ、と母や親戚に伝えたところ、随分安心していたようだった。相変わらず食欲はなかったが、このときは腹痛や下痢も落ち着いていたし。

その後組織検査の結果を聞きに行かなければいけなかったのだが「ガンじゃないんだし、組織検査で他に何がわかるんだろうなぁ。何でもないだろうに」と思えてしまい、かなり気楽な感じで病院へ行った。

 

「アメルさんね、やっぱり潰瘍性大腸炎みたいです!」

 

あ、あ、あ、あれ〜〜!?!?

そういうパターンもあるの!?!?!?

 

診察室では不意を突かれてちょっと笑ってしまったのだが、よく考えなくても全然笑い事ではないよね。

ちなみにこの一連のバタバタの最中、婚活アプリで知り合い唯一連絡を取っていたひとにはふられてしまった。さらに、貴重な合コンのお誘いもあったのに、2件もポシャった。

まぁね、正直婚活どころではないな、という感じではあるのだけど、なんだろう、縁のなさがすごい!

これ以上持病いらないんですけどね。

胃腸内科の先生に「潰瘍性大腸炎の薬は将来妊娠するのにも影響しませんから」とフォローされたものの、一生家庭を持たない可能性がまた一層高くなっちゃったぞ。

4歳の私と今の私と池袋の私を比べる

4歳頃の話を書くことにする。

ディズニーランドで風船を買ってもらい家に帰った翌日、私は玄関を出て犬小屋へ赴き、柴犬のジュンに風船を持たせてあげることにした。

ディズニー帰りだからといって、べつにジュンの肉球がグーフィの指みたいにぐっと丸まって、人間のように風船の紐を握ることを期待したわけではない。紐を握ることができるとかできないとかの段階は綺麗にショートカットして、私は「これを握ったら、犬といえどかなりびっくりするに違いない」とワクワクしていた。なにしろ風船は、私が下へと引っ張ると、負けじと空の方の向かってクンと引っ張ってくる。ただ浮いているというだけでもすごいやつなのに、その上あいつは地面とは逆の方へ私のことを引っ張ろうとする。さすがにこのびっくり感は犬にもわかるだろう、と、私はジュンにびっくりのおすそ分けをすることにしたのだ。

しかし、ジュンに風船を持たせてあげようとしてようやく、その手段を考えなければいけないことに思い至った。(ゴールのことばかり考えてルートを探す段階でつまずくという行動パターンは、幼い頃から変わらないらしい。)

さぁどうする、と。

紐の結び方を知らなかったのか、それとも脚に結んでやるという方法を思いつかなかったのかは忘れた。結局、幼い私と忍耐強いジュンの努力は報われず、風船は空へ飛んで行ってしまった。「こいつは誰にも持たれていなければ、どこまでも上に登っていくのか」と、ちょっと感心したような気分になったことを覚えている。人の手から解放された風船は宇宙という空の奥へ行って、その宇宙のどこかに溜まっていくのだ。そういうふうにできているのだ、と気付いてしまった。

それは、大人からすれば間違いではあったのだけれど、私は風船を見送ったあと、訳知り顔で家の中へ戻ったのだった。

 

誰にも、唐突に世の中のことを理解する瞬間があると思う。残念ながら「生まれて初めてなにかを理解した瞬間」について、私はあまり多くを覚えていない。記憶の海の中に沈んで、様々な波に揉まれてとっくに溶けてしまったかもしれないし、あるいは、私にはそんな瞬間がさほどなくて「いつの間にかそういうものだとわかっていた」というパターンが多かったのかもしれない。

宇宙に風船は溜まらないし、そもそも風船は、うんと高い空まで上がると萎んで落ちてしまうらしい、と、後に父から聞いた。だからといって、あのとき私の中にふっと湧いた「心得た感じ」が死ぬことはない。あれは4歳児なりの「悟り」みたいなものだった。深くて暗い土の中から起き上がってきた柔らかな新芽のようなその悟りを、間違っているからといってむしり取ってしまうのは気がひける。

たとえ正解でなくとも、自分の力で何か答えを見つけたと思うと、世界は少し広くなるのだ。雲の隙間から急に光が射したように「今までこんなに明るかったかな」と心地良く思うことさえある。

私は忘れてしまったけれど、きっと何度も自力で悟り、理解する体験を積み重ねてきているはずだ。なにしろ生まれてきたときは、太陽の明るさも空気の匂いも何も知らなかったのだから、そのときに比べれば、さすがに人間らしい知恵や感性を身につけているはずだ。

三十数年かけてもこの程度、と言われてしまえばそれまでだが、まぁひとからどう評されるかはこの際置いておく。

何回間違ってもいいから、考えることと感じることだけはやめるな。

と、池袋駅メトロポリタン口で画学生を見かけたとき、そんなようなことを思った。なんとなく、最近「感じる」ということをやめていたような気がしたのだ。例えば考えることが、小川の石や水の流れをよく観察してスケッチを取ることだとしたら、感じることは、川で寝そべってみることだ。寒いかもしれないし、どこか傷つけるかもしれないし、水に浸かるのはシンプルに面倒臭い。肌で水を感じるだけのことなのに、やたらと疲れるから、いやだな。そう言ってちょっと避けていた。

けれど、池袋で見た彼を見て、少し気が変わった。彼は今まさに川の中にいるのだろう。ちょっと気持ち良さそうだし、楽しそうだ。

考えることで理解し、感じることで悟る、ということもあるだろう。勇気を出して「ただ無防備に感じる」ことをしてみたら、考え方も変わるかもしれない。飛んでいく風船を見て、パッと四角い宇宙に想いを馳せたときのように。

私は池袋で画学生をしていた頃、たいして考えてはいなかったけれど、感じることに対してはとても貪欲だった。その頃に充実していて、いまは物足りない「何か」は、実はたくさんあるのだけれど、その中のいくつかは、いまでも満たすことができるだろうか。

考えすぎのきらいがある現在、ちょっと自分のそういうところを変えてみようか、と、母校の後輩かもしれない彼を見て、そんな前向きな気分になった。

貧乏人が平成の男女のお会計について考えてみた

あけましておめでとうございます。2019年初めての記事だというのに、いつにも増してとっ散らかっておりますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

新年早々、私は自分の中に見つけた「男女不平等の価値観」と格闘している。

きっかけは少し前に遡って、街コンで出会った男性と合コンをした際に感じた、些細な引っ掛かりだった。男性の幹事が「(自分たちが多く払うので)女性は2000円でいいですよ」と言ってくれたとき「なんて出来た幹事だろう」と嬉しく思うのと同時に「なんで払ってくれるんだろう…」と素っ頓狂な疑問を抱いた。食事中に年収が低くて困っている話なんてもちろんしていないし、おそらくは単純に「男性は女性より多く支払うもの」という、いにしえから言い伝えられる合コンの伝統を守ったのだろう。それにしたって、渋々支払うのならこちらにもその「渋々な感じ」は伝わるものだ。少なくとも彼は「今日はお会いできて嬉しかったんで、僕が多く出しちゃいます!」と感じさせるよう努めていたと思う。嬉しいよ。そんなの不快なわけがない。以前食事の際に「絶対にお前の分は支払わない」という強い意志を見せた男性がいた。特に「今日はワリカンでいいですか?」というような相談もなく「お前の分は払う気ないから!多めにも払いたくないから!でもそれはお前がご馳走してって言わないから出さないだけでオレはケチじゃないし!」と、背中で語っていた。私としては「べつに自分の分を自分で払うのはいいけど、パフォーマンスでいいから“イヤ〜僕がご馳走する意志はあったんですけどね〜”みたいな顔はしろよ」という感想だ。だってご馳走するひとだって「べつにオレがおごるのでいいけど、おまえも財布出すふりくらいしろよ」と思うんじゃないか。パフォーマンスなんてバカバカしいとか実際どちらが払うとか、そういう話ではなく!気遣い!自分はあなたに価値を感じていますよとか、あなたのご負担になりたくありませんという、ささやかなアピールチャンス!身もふたもないけれど、ひとのためにお金を使う(使おうとする)というのは、好意の表し方としてとてもわかりやすいし、知り合って間もなく、お互いをよく知らない男女にはうってつけのアピール方法のような気がする。

合コンでの男女支払ギャップも、おそらく本来はそういったアピールだったはずだ。

しかしながら、男性が男性であるからといって、当然のように女性にお金をかけなければいけない文化は、もはや時代に合っていない、とも思う。確かに男性が女性よりも高収入であるデータはあるけれど、だからといってその辺りにいるごく普通の男性が、月に5回のデートで5回ともディナーをご馳走してくれるくらいに裕福だろう、とは考えにくい。女性はそれを理解していて、わざとランチタイムのデートを提案したり、カフェでお茶を飲むときは「私が払うね」と言って多少バランスを整えていないか?と思っているのだけれど、どうなんでしょう。そういう観点でいえば、先ほどの背中で語る系ワリカン男子は現代の象徴だ。おそらく「実は毎月カツカツで、次のデートはマックでもいいですか?(笑)」とかなんとか、ちゃんと言ってくれたら、私だって低所得者の気持ちがわかる女だから「マック好きだから大丈夫(笑)今日もワリカンにしましょうね、私も気が楽だし」とか言っちゃって、あれほど悪い印象にならなかったと思う。そういう前フリがほしい、と思ってしまうのは、やはり私の中に「男性が多く支払うもの」というどこからか仕入れた伝統的な価値観があるからに他ならないけれど。

ともあれ、多くの場合、月に旅行するような余裕があるわけでもないのに、男性は少ない賃金の中からお金を出してご馳走してくれた。

優しい。

なんだか、最近急にそう思った。彼らは「おまえだって働いてるくせに、なんでオレばっかり出さなきゃいけないんだよ」なんて言わず「男女平等?なんかよくわかんないけど、親からもそう育てられてますのでいいんですよ〜」と、面倒くさい理屈をささっと掃き清め、自分は古い男なんで!みたいな顔をして甲斐甲斐しくしてくれる。

お金を出すこと自体は優しさではないかもしれないけれど、都合良くいにしえの伝統文化を持ち出してきてくれるところは優しさと言って差し支えないよなぁ、と思うのだ。

だって、伝統文化はそれ自体は良いものとは限らないし、善意のない使い方をすると怖いものである。

具体的に言うと、女性が「デートで車道側を歩いてくれない男マジありえない」と言って一蹴するようなことだ。

いや、車道側を歩いてくれない、つまり「私を大事にしてくれない」と思って傷つくのはもっともなのだけど、車道側の男はどうなってもいいのか?という疑問が昔からありまして。高いところに座って、いにしえの言い伝えに則り相手を採点するような姿勢だってそもそもどうかと思うけれど。

車道の話はともかく、昔から言い伝えられる男女間のマナーやルールは、おそらく時代の変化に伴い移り変わるはずだ。いくら世間で当たり前のように言われていることであっても「はたして自分や相手にとって必要不可欠なルールであるか」をひとつひとつ考えるべきかもしれない。先ほど「お金を出すことは好意の表し方として適当」と書いたけれど、もし女性側がその好意を窮屈に思うタイプならば「こういうわけで、今度から食事のときはワリカンにしてほしい」と話し合うのが健全なように思う。

支払の件をはじめ「デートは男性が演出してエスコートする」とか「何でもない日にプレゼントを用意する」とか、まぁ詳しくは西野カナの歌の歌詞を見ていただきたいんだけれど、とにかく男性に求められる負担が大きいことが、私は少し居心地悪い。これらを本当にすべてこなしている男性というのはなかなかいないとは思うけれど、この「特に意味のない不平等」に憧れて、優しい彼氏に甘える気満々の女子大生などを見ると、妻をママと勘違いして妄想を逞しくしている若い男の子と似たようなものだなぁと感じる。

しかし、平成30年の時点で男性側がこの不平等に対し、私の知る限りでは大きな不満の声を上げていないことがちょっと不思議だ。「だってそんな貧乏ちいこと言ったらモテないから」という言い分はわかるし、女性の責任でもあるけれど、今時の日本人が大概貧乏なことは女性の我々もわかっているので、なんだかもやもやとする。というか、現在の風潮だと、その不平等を円満に解決するには「ワリカンでいいよ」とか「そんなに頑張らないで」とか、女性の方から「声をかけてあげる」感じになる。いわゆる家事育児をしない夫が共働きの妻に「今日はチャーハンでいいよ」と言うのに似た気持ち悪さがあるが、価値観を見直す過渡期ってこんなものなのだろうか。

誰だって自分たちの不利益に対して感じるところがないはずはないと思うのだけれど、多少の不利益や苦労に対してなあなあで「男は見栄っ張りだからいいんだよ」とか言って(これはスキャマンダーさんに言われた)、デート時のさまざまな男女不平等に甘んじている男性たちは、やはり優しいのではないか?と遅ればせながら気づいた次第です。かわいいから許しちゃうとか、世話を焼きたいから焼いてるとか、わがまま言われると嬉しいとか、そういうのって…そうか…なんか、今までありがとうね…という気持ちになってしまう。私のほうには男性に対してそんな思いを抱くことが少なかったから尚更なのだろう。

男性優位社会における男性のプライドとか、そんなものではない。単純で朴訥な優しさ。

 

本当に、随分ととっ散らかった文章を書いてしまった。たぶん、ちょっとデート時の不平等に対する思いを、長年溜め込みすぎた。なにしろ私の中でまだ「男女不平等の価値観」の折り合いがついてないから、書き足りない気持ちがどうも拭えない。

 

なんだかずっとお金の話ばかりしてしまいましたが、男だから、女だからではなく、お互いに「あーこのひとに大事にされているなぁ」と感じられればなによりのはず。お金を使うことと車道側を歩くこと以外で「あなたは私の大切なひと」というアピールの仕方を、ぜひたくさん知りたいものだ。

結婚相手を決めるプロセスが逆だった説

他人のSNSやブログを見ながら「そんなの結婚する前に確認しなよ〜」とか「なんでそんなに許せないところがあるのに結婚しちゃったんだよー」とか妙に上から目線で思うことがある。「このひとたちは、どうして結婚に至ったの?」という謎にぶち当たりがちだったのだ。

もしかして、私が当たり前だと思っている「結婚相手を決めるプロセス」が、実は当たり前ではないのだろうか。

 

私の今年の婚活はアパマンスタイルだった。

不動産会社で写真と間取りを見て、内覧をし、水回りやクローゼットの中まで見学して、「西向きだけど駅が近いのが良いねぇ」なんて言っているお客さんのように、すごくすごく相手を吟味をした。一通り吟味し、他と比べたりしながら「この部屋にします」と、満足のいく結論を出すつもりだった。

だけど、実はそのプロセスが逆なのでは?

間取りだけでピン!と来たら「この部屋にします!」と即決。不動産屋さんの運転する車の中で都市ガスかプロパンかとかの説明を受けながら、1番最後に内覧なのでは?

そう思ったきっかけこそ、冒頭の「なんでそれを確認しないまま結婚に至ったの?」という問いである。「ロフトの天井低すぎて物置にしかならないよ」とか「ガスコンロだと思ってたらIHだった。ラッキー!」とか。間取りだけ見た時点で決めて内覧が後回しだったから「わからなかった」あるいは「決定する時点ではそこについてまったく気にしなかった」のではないか、というのが私の考えた結論だ。

結婚を決定する、と書くと語弊がある。なんと表現するのだろう。「私はこのひとと結婚するとして行動することにしよう」という「決意」だろうか?少なからず「パートナーにぴったりなひとを見つけた!」というようなニュアンスがあると思っていて、それが強いと「ビビビッと来た」というやつになるのではないか、と考えているのだが。

とにかくまず、誰かひとり「このひとと結婚しよう」とほぼ直感で決めたひとに集中すること。それからそのひとと籍を入れるためにルートを導くこと。そしてそのひとについての情報収集をしながら籍を入れるなり同棲するなりして、お互いの理解はおいおい深めていく、という順番こそ世間では王道なのではないか。

と、ここまで書いて気づいた。

この集中スタイル、昭和じゃん。

昭和かどうかは知らないが、この前金ローで観た「鎌倉物語」もこのスタイルだった。親戚のおばちゃんも集中スタイルで結婚したようだし「なんか、わりと出会ってすぐ、このひとと結婚する気がしてたんだよね」とは巷でよく耳にする台詞である。これで実際に結婚した場合も、集中スタイルに分類していいと思う。

改めてまとめると、あれこれ吟味してから「よし、このひとと結婚しよう」と決めるのではなく、第一印象が良いひとや希望の条件を満たしているひとに出会ったら「私はこのひとと結婚する」と決めて、それからアプローチする(結婚生活のヴィジョンを提示したり、生活スタイルのプレゼンをする)のが要領のいい婚活なのではないか、という話だ。

この可能性に今まで気づかなかった自分に、独身の才能を感じる。私にはそんな決断力がまずないし。

そういえば、以前「自分で決断できないせいで婚期が遅れる」というようなことを少しだけ書いた。

女友達の壁を超えて来い - 良薬くちにアメル

最初にほとんど勘だけでひとりを選ぶのって、ものすごいエネルギーを使いそうだ。シックスセンスはおろかセブンセンシズまで目覚めていても私には難しいと思う。

おそらく私よりも目的意識の強いひとや長いスパンで物事を計画できるひと、そして決断力のあるひとにとって、この記事は「なにをバカなことを言ってるんだろう…」と溜息が漏れるくらい当たり前のことなのかもしれない。けれど私は「相性チェックもそこそこに、先にターゲットを定めてしまう」という手があるのだと、本当に今まで思い至らなかったのだ。

これは想像だが「キミに決めた」と集中することにほとんど迷いがなく、それを決めること自体はそんなに困難ではなかった、というカップルもいるのだろう。そういう場合はどちらも「(ひとまず)キミに決めた」と思っていて、お互いに集中するから事がスムーズなのかな、とか、わからないなりに妄想は尽きない。なんとなく「あっ、このひとに決めよう」と自然に思えるひとは、普段から「ちょっとした決断すること」にいちいち抵抗を持たないひとなのではないかな、と思っている。今回はまだそんなに色落ちしてないけど、月に一度ヘアカラーすると決めているから明日美容院に行きますよ、というようなところがあるひと。日常で決断ができるひととは「でもな〜」と言って無駄に迷わないひとだ。

べつに必ず集中スタイルで結婚相手を決めなくても構わないし、私のアパマンスタイルが間違っている、というわけでもないのだが、世の中にはそういうやり方もあるのでは?と気づいたからには無視はできないなぁ、という話でした。

 

私が見てきた中では、婚活をしているひとは「恋が先か、結婚が先か」の二手に分かれる。

一方は、恋に落ちたひとと結婚したいひと。

かたや一方は、まず「このひとと結婚できそうか?」という点をクリアにしてから恋に取り掛かりたいひと。

私はどうしたって後者だと思っていたけれど、今は「本当にそうだったかな?」と疑問に思う気持ちがある。なにしろ勇気がない。きっと決断ができない。婚活って、確かにわざわざ迷いにいくためにやっている節はあると思うけれど、まだまだ婚活への覚悟が足りていなかったのだなぁと、目が覚めたような気分だ。

ちょうどよく目が覚めたところで、2018年が終わり、2019年になる。きっとそこは今日までとは少し違う世界のはずだ。というと、なんだかマトリックスみたいだけれど。

来年も、目の覚めるようなことがたくさんあるといい。私なりの直感も駆使しながら、悩みすぎず投げやりにもなりすぎず、曇りなきまなこで見定めなければ。いや、難しいな。

難しい、と感じるのは、まだ自分に結婚相手を決めるだけの自信や積極性がない証なのかもしれないけれど。いま一度、自分と向き合う時間を挟むべきかもしれない。まぁお正月休みだし、ちょうどいいかな。

それでは皆さん、良いお年を。

年末だし愛の話をしようぜ

思想家や哲学者って、愛のことを考えるのが好きだな。

どうしてそこに行き着くんだろう、と思いながら倫理の用語集をめくっていた女子高生は、いまや愛を探すアラサーになった。最近の私はわりとコミュニケーションのことばかり考えているけれど、コミュニケーションと愛は本質が似ているな、と思う。対象へ披露したり、交換しあったり、どちらも1人では完成しない。

と、思いきや、愛は1人でも完成するのだった。自分を愛する行為には、自分以外の何も必要がない。というわけで、コミュニケーションと愛はどうやら同じものではなかった。

自分の中でぐるぐると巡り続ける自己愛は、あたたかい血潮みたいにほんのりと心地良いものだ。

「傷つけられる前に傷つけて逃げる」

「恥ずかしいから向こうからアプローチしてほしい」

「私のことを優先しないなんて許せない」

「相手はきっとこう思っている。聞かなくてもわかる。きっとそう。さよなら」

こういった婚活あるあるも自己愛から来るものだ。これらは確かに苛立ちや悲しみを帯びているのだけれど、あまり抱え込むと妙に身体に馴染んで酔ってしまう。私は経験的に「自分がかわいそう」から生まれた「自分をかわいがろう」という自己愛には、中毒性があると思っている。自分以外の全てを敵とみなして悲劇のヒロインぶると、なんだかちょっと元気が出てくるものだし。わざわざインターネットで自分の陰口を探すひともいるくらいだから、他人から自分を守ることで生まれる自己愛は、少なからず気持ち良いものなのだろう。

けれど、自己愛にはコミュニケーションが伴わない。世の中全員私の敵だわ、と思っている自己愛の強いヒロインには、隣にいる友人が見えていないし、その友人が「私はあなたの味方だよ」と、粘り強く声をかけ続けても、コミュニケーションをシャットアウトして自分のことだけを愛し続けているから、友人からの愛を受け取れない。すぐ隣にあるその愛に、気づくこともないかもしれない。

身体にぐるぐると自己愛を巡らせているあいだ、ひとは孤独なのだと思う。自分の内側ばかりに目を向けるのをやめて、誰かを愛する準備が整ったとき、初めてひとからの愛も受け取ることができるのだ。

一種の、背水の陣かもしれない。傷つくことを恐れず、自ら愛を捧げる用意をし、さぁ来い!と向き合うことで、外界から愛を得るのだ。誰かからの愛が欲しいならば守りに入っている場合じゃないし、もちろん逃げている場合でもない。

逃げはしないが、私に限って言えば、真面目に向き合っているふりをしている、ということもある。誰かと真摯にコミュニケーションを取ることは、楽しいことでもあるけれど、結構エネルギーを使うからだ。空気を読んで適当に相槌を打っていれば、省エネモードでコミュニケーションを取ることができる。できるけれど、「空気を読む」というのは「自分で考えない」ということと同義だ。そんなテンプレートと脊髄反射に頼ったコミュニケーションで、自分のことを深く理解してもらおうとか、良いように思われようとか、ましてや愛し合おうなんて、そんなムシのいいことはなるべく考えない…ように、努力しているつもりです。

本当に、流行りに乗ってコミュ障とか言ってる場合じゃない。自分のことを優しく抱きしめている隙に、きっと大切な人の声は届かなくなり、最後には誰もいなくなってしまう。言葉にしなくても目と目で通じ合う微かに色っぽい昭和と平成の時代が終わり、いまや愛を伝えられない者は愛されない時代なのだ。

まぁ、独りよがりな発信をするばかりでは愛と呼べないし、自分以外のひとをスマートに愛することはやはり難しい。うまく愛を表現できないひとも、コミュニケーションが取れないひとも、私を含め世の中にはたくさんいるものだ。

 

ひとはなぜ愛について考えるのか?

目に見えないものだから。自分が愛されているかどうか不安だから。愛されたいから。様々な理由があるかと思う。

今のところ私が思いつく理由は、やはりコミュニケーションの基礎的な部分に由来する。

「ひとって、どうしたらひとに喜んでもらえるかを考えるものだから。」

アラサーの私から、女子高生の頃の私へのアンサーです。

高校生の時から待っていたわ

高校生のとき友人が語った夢物語が、個人的に今でも好きだ。「無人島で黒人から白人までいろんな人種の男と子供を作って、三色団子みたいにいろんな肌の色の子供と暮らしたい」みたいなことだった。

私だったら、無人島でなくてもいいが、なにか寺子屋みたいな場所を作りたい。みんなで食事を楽しんだあと、お茶を淹れながら「ねえねえ〜魂があるとして、それはいつ肉体に宿ると思う〜?」みたいな話がしたいのだ。

そういう話し相手は、べつに家族でなくてもいい。でも、家族がノリノリで「え〜〜個人的には自我が芽生えた瞬間だけど、難しいところだよねー!」と答えてくれたら、それはとても幸せな環境だろう。

バカな話を真面目にするのが好きだ。どんなバカな話でもいいから、お互いに向き合って深く話し合うこと。今まではそういうコミュニケーションで充実感を得てきた。そういうやりとりができる相手に対しては、親しみの感情より先に、信頼感のような安らぎを感じる。

しかしその安らぎを得る感覚をなくして久しい。婚活はうまくいかないし、他人に対してやきもきしてばかりだ。誰からも求められず、誰からも選ばれない。自分はこの世界に馴染んでいない、と感じる。

もしかすると、私の本当の居場所はここではないのではないのかもしれない。たとえば、厳しくも美しい極北の国、戴国なのではないだろうか。

しかし戴を治めていた泰王は、謀反ののち行方が知れないとも死んだとも聞く。戴はいま、どうなっているのだろう。王の半身である麒麟・泰麒は、他国の王の力を借り、慶国から戴へ発った。果たして泰麒は王を見つけることができるのか?

 

2019年、十二国記待望の新刊、発売です。

〜胎果と魂の関係は、果たして今回こそ明かされるのか〜