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良薬くちにアメル

酸いより甘いより苦味が強い、日々の記録を残していきます

4歳の私と今の私と池袋の私を比べる

4歳頃の話を書くことにする。

ディズニーランドで風船を買ってもらい家に帰った翌日、私は玄関を出て犬小屋へ赴き、柴犬のジュンに風船を持たせてあげることにした。

ディズニー帰りだからといって、べつにジュンの肉球がグーフィの指みたいにぐっと丸まって、人間のように風船の紐を握ることを期待したわけではない。紐を握ることができるとかできないとかの段階は綺麗にショートカットして、私は「これを握ったら、犬といえどかなりびっくりするに違いない」とワクワクしていた。なにしろ風船は、私が下へと引っ張ると、負けじと空の方の向かってクンと引っ張ってくる。ただ浮いているというだけでもすごいやつなのに、その上あいつは地面とは逆の方へ私のことを引っ張ろうとする。さすがにこのびっくり感は犬にもわかるだろう、と、私はジュンにびっくりのおすそ分けをすることにしたのだ。

しかし、ジュンに風船を持たせてあげようとしてようやく、その手段を考えなければいけないことに思い至った。(ゴールのことばかり考えてルートを探す段階でつまずくという行動パターンは、幼い頃から変わらないらしい。)

さぁどうする、と。

紐の結び方を知らなかったのか、それとも脚に結んでやるという方法を思いつかなかったのかは忘れた。結局、幼い私と忍耐強いジュンの努力は報われず、風船は空へ飛んで行ってしまった。「こいつは誰にも持たれていなければ、どこまでも上に登っていくのか」と、ちょっと感心したような気分になったことを覚えている。人の手から解放された風船は宇宙という空の奥へ行って、その宇宙のどこかに溜まっていくのだ。そういうふうにできているのだ、と気付いてしまった。

それは、大人からすれば間違いではあったのだけれど、私は風船を見送ったあと、訳知り顔で家の中へ戻ったのだった。

 

誰にも、唐突に世の中のことを理解する瞬間があると思う。残念ながら「生まれて初めてなにかを理解した瞬間」について、私はあまり多くを覚えていない。記憶の海の中に沈んで、様々な波に揉まれてとっくに溶けてしまったかもしれないし、あるいは、私にはそんな瞬間がさほどなくて「いつの間にかそういうものだとわかっていた」というパターンが多かったのかもしれない。

宇宙に風船は溜まらないし、そもそも風船は、うんと高い空まで上がると萎んで落ちてしまうらしい、と、後に父から聞いた。だからといって、あのとき私の中にふっと湧いた「心得た感じ」が死ぬことはない。あれは4歳児なりの「悟り」みたいなものだった。深くて暗い土の中から起き上がってきた柔らかな新芽のようなその悟りを、間違っているからといってむしり取ってしまうのは気がひける。

たとえ正解でなくとも、自分の力で何か答えを見つけたと思うと、世界は少し広くなるのだ。雲の隙間から急に光が射したように「今までこんなに明るかったかな」と心地良く思うことさえある。

私は忘れてしまったけれど、きっと何度も自力で悟り、理解する体験を積み重ねてきているはずだ。なにしろ生まれてきたときは、太陽の明るさも空気の匂いも何も知らなかったのだから、そのときに比べれば、さすがに人間らしい知恵や感性を身につけているはずだ。

三十数年かけてもこの程度、と言われてしまえばそれまでだが、まぁひとからどう評されるかはこの際置いておく。

何回間違ってもいいから、考えることと感じることだけはやめるな。

と、池袋駅メトロポリタン口で画学生を見かけたとき、そんなようなことを思った。なんとなく、最近「感じる」ということをやめていたような気がしたのだ。例えば考えることが、小川の石や水の流れをよく観察してスケッチを取ることだとしたら、感じることは、川で寝そべってみることだ。寒いかもしれないし、どこか傷つけるかもしれないし、水に浸かるのはシンプルに面倒臭い。肌で水を感じるだけのことなのに、やたらと疲れるから、いやだな。そう言ってちょっと避けていた。

けれど、池袋で見た彼を見て、少し気が変わった。彼は今まさに川の中にいるのだろう。ちょっと気持ち良さそうだし、楽しそうだ。

考えることで理解し、感じることで悟る、ということもあるだろう。勇気を出して「ただ無防備に感じる」ことをしてみたら、考え方も変わるかもしれない。飛んでいく風船を見て、パッと四角い宇宙に想いを馳せたときのように。

私は池袋で画学生をしていた頃、たいして考えてはいなかったけれど、感じることに対してはとても貪欲だった。その頃に充実していて、いまは物足りない「何か」は、実はたくさんあるのだけれど、その中のいくつかは、いまでも満たすことができるだろうか。

考えすぎのきらいがある現在、ちょっと自分のそういうところを変えてみようか、と、母校の後輩かもしれない彼を見て、そんな前向きな気分になった。