個室パーティーとキャッツ
個室タイプの婚活パーティーは、初めて参加した際の印象がとにかく良くなかった。参加人数は少なくなかったと思うのだが、白紙の最終シートを提出してすぐ帰ったあの日だ。
その頃はまだ街コンが頻繁に開かれていなかったこともあり、一人で、あるいは友人を伴って何度か参加した。しかし、なぜか毎回嫌悪感を感じる男性ばかりが目に付き、いつも無理やりアプローチカードを書いていた記憶がある。マッチングすることもほとんどなかった。
参加条件に合う街コンがないので渋々…という気持ちではあったが、そんな個室パーティーへ久しぶりに参加してきた。初めて利用する会社だったせいもあるのか、終わってみれば「そんなに悪くもなかった」と感じた。
大人数でのパーティーにはない利点も発見できた。
まず、飲み会の雰囲気の中でよりも密度のある質疑応答ができるし、時間が限られているから当たり障りのない会話はさくっと終わる。不慣れからなのか、ときどき時間を要領良く使おうとしないひとにも出会うが、それはそれで婚活への姿勢や熱量をはかる目安になるので構わない。
また、街コンは二次会を含めると3時間を超える長丁場になるが、個室パーティーは1時間程度で終了する。ギリギリまで予約を受け付けている会場が多いこともあり、空いた時間に気軽に使えていいな、と思った。
今回マッチングしたのは、同じ仙台市内に住む少し年上の男性だ。健康そう、というか丈夫そうなイメージで、明るいがデリカシーのある話し方をする。私は彼の若い頃の経歴を聞き興味をひかれ、とても純粋に「もっと話をしたい」と思い、第1希望の欄に彼の番号を書いた。
たまたま知ったのだが、彼は以前のブログに書いた「ライブラ」と誕生日が同じらしい。それを聞いた瞬間は、正直ゾッとした。良いものか悪いものかはともかく、なにかご縁のある星の元に生まれたらしい。
ちなみに女友達との間で使う彼の通称は「キャッツ」である。
ライブラのときと同じ轍を踏むのがいやで、キャッツに対しては妙に冷静を心がけようとしてしまう。浮かれないように、期待しすぎないように、都合の良い妄想をしないように。
などと言いながら、LINEが来れば「スタンプや絵文字がなくて好みの感じ〜!」などと興奮している。きっと明日からも、細々としたこといちいち喜んだり憤慨したりするのだろう。
若い頃に恋愛を楽しむ努力を怠ると、のちのち経験不足というハンデになって返ってくるのだな、と最近よく痛感する。バカバカしいとか意味がないとか恥ずかしいとか出会いがないとか、言ってる場合ではないぞと、恋愛は立派な勉強だぞと、中学生だった頃の私に言いたいし、こんど親戚の高校生に会ったら言おう。
田舎の夏のつまらない合コンのこと
初めての街コンで私が設けた目標は「全員と連絡先を交換すること」だった。自分から教えてほしいと言い出すのが恥ずかしい、なんてつまらない殻を破りたかったという意味もある。しかしそれよりも、自分は一目惚れをしないから、という理由が大きい。
私の場合は、誰のこともおそらくその場では好きにならない。好感を持つことはあれど、ピンと感じることすらない。しかし、何度か会って話をしたら、3回目か4回目の食事の席で、ハッと好きになることがあるかもしれない。
だから、どうしても2回目に繋げることが必要なのだ。
夏に、合コンをした。おそらく男性陣は、幹事に無理やりかき集められたメンバーだったのだと思う。私や友人たちは久しぶりの(または初めての)合コンで、笑ってしまうくらい張り切っていたのだが、残念ながら肩透かしをくらうような内容だった。そしてそのとき、男性も女性も誰ひとり「連絡先を交換しよう」と言わなかった。女性側の幹事は私だったので、後日「本当に誰の連絡先も聞かなくていいのか」と友人たちに何度も確認したことを覚えている。もしかすると彼女たちは、自分の連絡先を教えたくないほどその日のことが不快だったのかもしれないが、なんだかなぁ、と虚しい気分になった。
少しばかり話をするとお互いに「なんかもういいかな、ハズレだな」という雰囲気になって、飲み放題が終わるとさっさと解散してしまう。そんな経験は、今までも何度かあったように思う。今考えればひどく贅沢な話だ。
私も友人たちも、30歳過ぎで異性の知り合いは少なく、地方都市に住み、合コンのチャンスは決して多くない。「一期一会を大切に」という説教ではないが、私にとってはどんな合コンもどんな出会いも貴重だ。一見光り輝く宝物のようには見えない出会いでも、大切にしなければならないものなのだ。
たとえそのひとと縁がなくとも、そのひとの友人と私、もしくはそのひとの友人と私の友人とは縁があるかもしれないのに。
「恋人を作る」という共通の思惑があって集まっているというのに「はいハズレ、終わり終わり」なんて、みんな目的意識が低いよ。こっそりと、そんなことを思っていた。
だから自然と、私が1番最初に掲げた婚活の目標は「目標をはっきりさせること」になった。なんとなくの合コンも、なんとなくの婚活も、私はもうしないと決めた。私は運の良いほうではないから、なんとなくでは結果が出ない。ない頭を使って自分なりに分析し、試行錯誤を繰り返す。いつだって私にとって「頑張る」とはそういうことだった。
街コンと集中
婚活を始めるにあたり「まずは積極的に街コンへ参加する」と決めた。同時に「その都度何か目標を掲げる」というルールも設けたはずなのだが、今日は億劫で、目標未設定のまま参加してしまった。
目標を作ること自体は、特に誰に習ったわけでもない。なんとなく、ゴールが遠そうな時はいつもそうしている。
目標がないと、街コンもだらけるのだな。
街コンが終わってからの私の感想だ。「さぁこれを言うぞ」「いまあれをしようか?」そんな緊張感が一切ないため、自然と集中力に欠けた。「これ、言わなくてよかったな」「さっきの食事の仕方、ちゃんときれいだっただろうか?」などなど。終わってもいないうちから次々と反省が思い浮かぶ。
私には、街コンというのは長いのだ。初対面の人間と2時間も話をするのは、誰にとってもすごく疲れることだと思う。特に私は顔に出る。疲れたら疲れた顔をするし、つまらないと黙る。今日は特にそれがひどかった、と、自分では感じている。
目標を設定することには、どうやら多少意識を高く保つ効果があったようだ。
とはいえ、毎回どんなメンバーが集まるかもわからない。そんなぼんやりとしたシチュエーションに向けて目標を作るのは、意外と頭を使う。
ならば「今日の話題」でも作ろうか。
集中を切らさないための手段ならば「今日は必ずこの話とこの話を聞く」というのでもいいかだろう。「ごきげんよう」のように常に4〜5つほどネタをストックし、旬の話題である「当たり目」だけ毎週考えるのだ。それなら楽かもしれない。
サイコロを投げるのと違って、すべてのネタを聞くのが目標だから、どちらかというと「徹子の部屋」のようなイメージだけれど。
まだまだ始まったばかりの婚活だが、考えることがたくさんあって少し楽しい。
愛と自信だけが友達だった
「若かったから」で片付けてしまえばそれまでなのだが、少し前までの私は「自分そこそこイケてる」という謎の自信に満ち溢れていた。「深く考えたことはないが、おそらく自分はかなりかわいい」という自信があった私は、流行のファッションを追求するでもなく、流行の眉を描くでもなく、ダイエットにいそしむわけでもなく、ただただ自信だけを武器に日々を過ごしていた。しかし、思い返すと案外モテていた気がする。
そんなに美人ではなかったはずなのだ。だが「誰がどう見ても美人っしょ」というオーラだけは常に放出していた。ひとはそのオーラに触れて「あっ、美人じゃないと思ったけど世間では美人なのかも。きっと美人。言われてみれば美人な気がしてきた」なんて思わされてしまったのかもしれない。
自信を持つことや自分を肯定することの重要性は、経験を持って理解している。しかしあの頃のような無鉄砲にも似た自信を持つことは、もうできないな、とも思う。30歳を過ぎたというのに、私ときたら今更アイデンティティを見失っている節さえあるのだ。
婚活を始めるにあたり、並行するようにブログを書き始めた。とりあえず遊ぼう、と思った。記録を残すこと、感情や記憶を書き起こして可視化することは、私にとっては良い遊びなのだ。たくさん遊んで、たくさん残す。それを続けることは、ほんの少しかもしれないが、自信を持つことに繋がる気がしている。こんどは謎の自信ではなく、根拠のある自信にしたかった。そしてその自信の拠り所はまさにここだ。
また「ブログを始めたとき」というのは、緑内障が発覚し「1年後も今と同じくらい目が見えているかわからないのだと気づいたとき」でもある。書くことだけにこだわらず「できるだけ好きなことをしよう」と決めた。婚活でさえ楽しみながらしたいくらいだ。
「自信に溢れた表情」とか「私らしさ」とかというやつは、散々好きなことをして遊んだら、あとから勝手についてくるものだと思っている。将来、私以外のひとが考える「私らしさ」が素敵なものであれば嬉しい。
◇今回は「わた愛」の前半部分を読んだ時に感じたこと、今になって思ったことをざっくりと書いた。婚活を始めるタイミングで出会った物語なので思い入れが深く、考えさせられるテーマも多い。
わたしは愛される実験をはじめた。第6話「なぜモテる女は既読スルーを使いこなすのか?」 https://p-dress.jp/articles/6077
ワハハコミュニケーションからの卒業
もう随分前のことだが、とある街コンで知り合った男性と「自分はコミュニケーションが苦手故の陽気キャラだ」という話で意気投合したことがある。
私も彼も、初対面のひとと話すことを臆さないし、グループで会話を回すのも不得意ではない。しかし私たちに言わせれば、それは「取り残される不安」の裏返しなのだ。自らが盛り上げ役になれば、その間は会話の輪に加わっていられる。安心感を得るために陽気なキャラクターを演じているだけである、という話。
「話題を提供することはできるけど、本当は不器用だから、隣でぽっと発生した会話とかにはうまく入っていけないんだよね」
そうそう、としばらく二人で頷きあっていた。
このおかしな不器用さは未だに私の足を引っ張っている。若い頃にいつの間にか身につけた処世術ではあるが、まったく婚活向きではない。
先日の街コンでも、男性と話しているときに「なんか、私いま久本雅美みたいじゃない?」と感じる瞬間があった。とにかく何をおいても笑いを取りに行ってしまうのだ。そのせいで適度に自分を「飾る」だとか「女性として魅力的に見せる」というアピールができていない気がする。気付くとアシストばかりしているし…というか、他人のアシストは楽だ。自分の話をせず、たまに他人を持ち上げ、おちゃらけて司会者のポジションに徹するのは実は楽なのだ。
どうせ真似するなら、もっとモテそうな芸能人の会話を真似をすればいいのに。なぜよりによって久本雅美だったのか。
そうは思うが反射的に出てくるのは次回もきっと久本雅美なのだろう。もはや久本雅美を装うのは体力的なコスパが良い。それくらい久本雅美は私に馴染んでしまっている。
だが、もうワハハとか言ってる場合ではない。私は東京オリンピックまでに結婚する女なのだ。学生の頃ならともかく、そろそろ久本雅美にばかり頼ることから卒業しなければならない。
たとえば、基本的には大人しい雰囲気で、ここぞというときだけ自虐的でないスマートな冗談が言える、そんな女性になりたい。真っ先に思い浮かんだのは、森薫の漫画に出てくるセクシーな女性キャラクターだ。あんなふうになりたい。それはそれはすごくなりたい。
次回の街コンでの目標は、内なる久本雅美の暴走を阻み、封印すること。「私はドロテア奥様に見出された誇り高きメルダース家のメイド」という強い気持ちを持って臨みたい。
婚活で出会ったライブラのはなし
今年の1月頃、私にとって婚活パーティーはまだ暇つぶしのようなものだった。開催直前ともなると女性の参加費は500円ほどなので、あるときなんとなく足を運んでみたのだ。
街コンと違い、半個室で男性と1対1で対話するスタイルだった。私はそこで出会った男性と4ヶ月ほど交際した。交際というか、相性を確かめるために何度か出かけた、と書いたほうが正しい。
彼(天秤座なのでライブラと呼ぶ)は穏やかな性格が魅力的な人で、ライブラの性格に文句をつけることだけは最後までなかった。あまりに優しく性格が良いので「もう会いたくない、会っても好きになることはない」と自分に言い聞かせるのが困難だったことを覚えている。
なぜ好きになれなかったかというと、ざっくり言ってしまえば相性の問題だ。何度会っても異性としての気持ち悪さが拭いきれなかったし、手を握るのが嫌だった。
それでも、ライブラほど人格が魅力的な男性には出会ったことがなかったので、4ヶ月間ずっと迷っていたように思う。
あるとき、東京へ行く長距離バスの中で、ひとり暇を持て余した私はメモ帳を取り出して「好きなところシート」を作った。
・顔
・身体的特徴
・性格
・将来性
・財力
・楽しい
・清潔感とエチケット
といった具合に、項目を12ほど上げていく。ライブラが◯だったのは性格ただ1点。他はすべて△か×だった。
好きなところが2個以上ないと「とっても好き」にはなれないのかもしれない。×だらけの好きなところシートを何度も見返して、あと1つでも◯があればなぁ、と見るたびに思った。
また、このシートを作った際に、私は一緒にいて落ち着くタイプよりも、冗談を言い合えて会話を楽しめるタイプを求めているようだ、と気づいた。ライブラはおっとりとした真面目なひとで、自分から冗談を言うタイプではない。恋愛経験が少な過ぎて、自分の中にあるこんな傾向すら掴んでいなかったことは反省している。
しかし、そのバスの中では私も未練がましくて、シートを少し甘めにつけていたらしい。その後ライブラとアウトレットモールへ行った際、ライブラは「普段はサンドバッグにでもしているのだろうか?」と思うほどバサバサにほつれた手提げのバッグを持参してきた。「バサバサですねバッグ。可哀想なくらいボロボロですね」と言うと、なぜか照れたように「100均で買いました」と言う。清潔感とエチケットの項目は△にしていたのだが、そのとき脳内で2mの筆を使ってシートを×に書き換えてやった。
よく「服装や格好なんていくらでも変えてやれる」というが、実は私もそう思っていた。しかしあまりに直すところが多いと面倒だし、元よりたいして好きな相手ではないのだ。「なぜ私がそんな母親のようなことを細々としてやらないといけないんだ」とイライラしてしまう。ライブラは私よりも8歳も年上だったので、ろくに自分の身なりを整えられない幼稚さが、余計に腹立たしかったのかもしれない。
そのバサバサバッグの件があった日のうちに、「もう会いたくない」という旨をライブラに伝えた。
ちなみにライブラのほうは、意外にも私と会うのが楽しかったらしい。「最後に1回だけ会ってほしい」と頼まれていたのだが、約束の前日に「今更ミチルさんに会うのが怖くなってしまいました。ありがとうございました、お元気で」というようなLINEが届き、私たちのお付き合いは終了となった。
こうして私は無事再スタートを切ることができたのだが、最終的に私のほうが振られた感じになっているのが少し引っかかる。
多様化しない街コンを愚痴る
私はマッチングアプリが苦手なので、今後婚活の手段は街コンなどのパーティーがメインになると思う。しかしいざ街コンを集めたサイトを見ていると、なんだかもやもやとした気分になることが多い。
家庭的な女性募集、年上の頼れる彼氏を作ろうなどなど。
私のニーズにマッチしたコピーライティングをあまり見たことがない。
30歳を超えてから、年上の恋人に対する憧れは日々薄れてきている。むしろ最近は年下の男性に興味があるくらいだ。なかにはそういう男性もいる、という話ではあるが、私より年上の(未婚の)男性は男尊女卑の傾向が強いように思う。こちらが「はじめまして」と言ったそばから見下している。目が合った瞬間から感じが悪い。
美人でないから見下すのか女であるから見下すのかは不明だが、その調子じゃあそりゃその年まで結婚できないでしょうね、と私もなんとなく上から目線になり、相手もそれを感じるのか無駄にピリピリした雰囲気になったりもした。
それと、私の場合は子供を育てることを考えるため「やっぱり父親になる人は若いほうがいいな」と思ってしまう。年上彼氏を謳うマッチングパーティーは数多あるが、私のニーズにはマッチしないのだ。
逆に、男性から見て「家庭的な彼女」のニーズはどうなのだろう。言葉の響きからは封建的なイメージが湧くが、女性がフルタイムで働くのが当たり前の時代において「家庭的な彼女」が具体的にどのような女性なのか、あまり想像がつかない。
料理が得意だとか、小さい子供と遊ぶのが好きだとか。家庭的という言葉がふさわしいのかはわからないが、男性はその言葉からそういう女性を想像するのだろうか。だとしたらずいぶんと幅が広い。見方を変えれば「どんな女性でも参加OKですよ」ということか。高い費用を払って参加する男性の気持ちを想像すると、それもどうかと思ってしまう。
◯◯な女性、◯◯カップルになろう、というコンセプトがあるパーティー自体は良いのだ。自分の求めるものを選択できる、あるいは自分が求められる可能性の高い場所を提供されるメリットは大きい。だが今の時点で私が選べるパーティーの中に「これは」と思うものはない。
「年上彼氏」のような、昔からもてはやされたものばかりに固執しなくてもいいのに、と思う。お酒が飲めない人が素面で楽しむ「下戸パーティー」とか、転勤で引っ越してきた人や遠方からの参加者が集まる「転勤族パーティー」とか、そんな個性的なパーティーだったらもっとワクワクするだろう。ニーズや意味は、あまりないかもしれないけれど。