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良薬くちにアメル

酸いより甘いより苦味が強い、日々の記録を残していきます

美人とブスのあいだ

以前女性向けのファッション誌を読んでいたとき、男性のメイクアップアーティストが女性の美容の悩みに答えるスタイルの特集があった。その中で「毛穴の開きを気にしている」という悩みへの回答が「男性はそこまで見ていない」というものだった。このとき求められた回答は、絶対に毛穴ケアの方法だったと思うのだが、案外本質的な回答だったかもしれない、と今でも思う。

男性はアバウトな雰囲気やごくごく個人的な好みと性癖で「美人」か「ブス」かをジャッジしている、というようなことを耳にしたことがある。確かに、ディテールを気にするのはむしろ女性だ。女性が真剣に女性を「美人」か「ブス」かとジャッジするとき、おそらく何度も判定が揺らぐ。納得のいく結論が出ないこともある。肌のあれこれ、骨格のあれこれ、メイクや表情のあれこれに髪のあれこれ、視覚の面だけでなく声や香りのあれこれも。多岐にわたるディテールをひとつひとつチェックするからこそ、一概に「ブス」とか「美人」と決めつけることが困難なのだ。

 

学生の頃「この世に絶世の美人なんているのだろうか」と本気で思っていた。その頃は自分の中にこれぞ理想の女性、というアイコンがなくて、どんなアイドルや女優を見ても、素直に「絶世の美女!」というふうに思えなかった。同時に、幼い頃から知っている友人などを「こいつ、実は美人だったのか」と思うことが増えた。

当時は「よく知らない人」を「美人だ」と感じることが難しかったのだと思う。実は顔立ちなんかたいして見てはいなくて、対面し、所作を眺め、話をしたりして、人間としての魅力を感じればなんとなく好ましい、つまり「美人」のように見えていた。まったく化粧をしない、バージンヘアのオタク女に対してさえ「骨格が良いから髪型変えたらめちゃめちゃ美人になるわ」と欲目全開。当時妙に男性的なジャッジをしていた私の手にかかれば、近しい友人たちは全員美人判定となる。

学校を出て人間関係が広がるにつれ、ますます私の「美人」と「ブス」の境は曖昧になっていった。

 

おそらく美人の条件は、特にない。

どんなに美しいと評判の女性だって、私にとって気に入らない女であれば「笑い方がブス丸出し」とか「でも横顔のっぺりしてるじゃん」とか、自分のことをいくらでも棚に上げて文句を言えるし。私は誰だって美人にできるし、誰だってブスにしてしまうのだ。

自分のことだって例外ではない。

婚活の場や街コンでは、あまり自分サゲをしないようにしている。「私ブスだから」と言って「確かに言われてみればブスかも」なんて気づかせることにメリットはないし、最悪「わかってるんならもっとなんとかしろ!」とイラつかれそうである。

理由や良し悪しは置いておくとして、世間ではブスは怠慢であり、ブスであることは罪なのだ。だからとりあえず、最善の手を尽くした上で美人のふり。

しかし、何の根拠もなく美人のふりをするのは骨が折れる。「本当はブスなんだけど」と思いながら「私は美人よ」と自分に言い聞かせるのは、やはりちぐはぐだから、長く続けてはいられない。自分に対して自信がなく、ネガティブなときは特にそれが顕著だ。もう無理、どう頑張ってもブスはブス、と罪なるブスに甘んじたくなる。

 

そんな辛い日々を過ごしていた私だが、昨日、思い立って合わせ鏡で後頭部のスタイルをチェックした。髪が短くなったことで、急に自分の頭蓋骨が絶壁かどうかを確かめたくなったのだ。横顔のチェックは何度もしているが、そういえば後頭部の形は今まであまり気にしたことがない。触った感じが芳しくなかったため、恐る恐る鏡を見てみる。しかしそこには思いがけず、丸みを帯びた美しいカーブがあった。

俄然自信が出た。俄然やる気になった。

そういうわけで、昨日の夜、突如私は美人になった。長らく誰にも容姿を褒められず、自信をなくしてゆく一方だったのに、まさか30歳を過ぎてから自力で美人ポイントを見つけることができるとは思わなかったが、棚からぼた餅鏡から美人。

いつか自信をなくしたとき、傷ついたときは、また合わせ鏡でこの美しい丸みを愛でようと思う。