ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

良薬くちにアメル

酸いより甘いより苦味が強い、日々の記録を残していきます

年末だし愛の話をしようぜ

思想家や哲学者って、愛のことを考えるのが好きだな。

どうしてそこに行き着くんだろう、と思いながら倫理の用語集をめくっていた女子高生は、いまや愛を探すアラサーになった。最近の私はわりとコミュニケーションのことばかり考えているけれど、コミュニケーションと愛は本質が似ているな、と思う。対象へ披露したり、交換しあったり、どちらも1人では完成しない。

と、思いきや、愛は1人でも完成するのだった。自分を愛する行為には、自分以外の何も必要がない。というわけで、コミュニケーションと愛はどうやら同じものではなかった。

自分の中でぐるぐると巡り続ける自己愛は、あたたかい血潮みたいにほんのりと心地良いものだ。

「傷つけられる前に傷つけて逃げる」

「恥ずかしいから向こうからアプローチしてほしい」

「私のことを優先しないなんて許せない」

「相手はきっとこう思っている。聞かなくてもわかる。きっとそう。さよなら」

こういった婚活あるあるも自己愛から来るものだ。これらは確かに苛立ちや悲しみを帯びているのだけれど、あまり抱え込むと妙に身体に馴染んで酔ってしまう。私は経験的に「自分がかわいそう」から生まれた「自分をかわいがろう」という自己愛には、中毒性があると思っている。自分以外の全てを敵とみなして悲劇のヒロインぶると、なんだかちょっと元気が出てくるものだし。わざわざインターネットで自分の陰口を探すひともいるくらいだから、他人から自分を守ることで生まれる自己愛は、少なからず気持ち良いものなのだろう。

けれど、自己愛にはコミュニケーションが伴わない。世の中全員私の敵だわ、と思っている自己愛の強いヒロインには、隣にいる友人が見えていないし、その友人が「私はあなたの味方だよ」と、粘り強く声をかけ続けても、コミュニケーションをシャットアウトして自分のことだけを愛し続けているから、友人からの愛を受け取れない。すぐ隣にあるその愛に、気づくこともないかもしれない。

身体にぐるぐると自己愛を巡らせているあいだ、ひとは孤独なのだと思う。自分の内側ばかりに目を向けるのをやめて、誰かを愛する準備が整ったとき、初めてひとからの愛も受け取ることができるのだ。

一種の、背水の陣かもしれない。傷つくことを恐れず、自ら愛を捧げる用意をし、さぁ来い!と向き合うことで、外界から愛を得るのだ。誰かからの愛が欲しいならば守りに入っている場合じゃないし、もちろん逃げている場合でもない。

逃げはしないが、私に限って言えば、真面目に向き合っているふりをしている、ということもある。誰かと真摯にコミュニケーションを取ることは、楽しいことでもあるけれど、結構エネルギーを使うからだ。空気を読んで適当に相槌を打っていれば、省エネモードでコミュニケーションを取ることができる。できるけれど、「空気を読む」というのは「自分で考えない」ということと同義だ。そんなテンプレートと脊髄反射に頼ったコミュニケーションで、自分のことを深く理解してもらおうとか、良いように思われようとか、ましてや愛し合おうなんて、そんなムシのいいことはなるべく考えない…ように、努力しているつもりです。

本当に、流行りに乗ってコミュ障とか言ってる場合じゃない。自分のことを優しく抱きしめている隙に、きっと大切な人の声は届かなくなり、最後には誰もいなくなってしまう。言葉にしなくても目と目で通じ合う微かに色っぽい昭和と平成の時代が終わり、いまや愛を伝えられない者は愛されない時代なのだ。

まぁ、独りよがりな発信をするばかりでは愛と呼べないし、自分以外のひとをスマートに愛することはやはり難しい。うまく愛を表現できないひとも、コミュニケーションが取れないひとも、私を含め世の中にはたくさんいるものだ。

 

ひとはなぜ愛について考えるのか?

目に見えないものだから。自分が愛されているかどうか不安だから。愛されたいから。様々な理由があるかと思う。

今のところ私が思いつく理由は、やはりコミュニケーションの基礎的な部分に由来する。

「ひとって、どうしたらひとに喜んでもらえるかを考えるものだから。」

アラサーの私から、女子高生の頃の私へのアンサーです。